画人伝・宮城 狩野派 宗教画

旧派の重鎮として活躍した佐久間家の末流・佐久間鉄園

佐久間鉄園「亀上観音図」瑞巌寺蔵

明治に入り、政治改革によって旧秩序は廃止され、仙台藩も宮城県として一新された。維新後も漢学の素養は重んじられたため、南画は引き続き隆盛をみせたが、その一方で、代々藩の御用絵師として狩野派の画風を伝えてきた佐久間家などは、存立の基盤を失うことになった。

佐久間家の末流である佐久間鉄園が成年を迎えたとき、すでに時代は明治に入っており、藩の制度は崩壊し、絵師としての生活は成り立たなかった。さらに、鉄園の画風は、当時の新政府の官吏たちが好んだ南画風ではなく、狩野派の正統を引き継いだ北宋風のものだったこともあり、鉄園は画家の道をあきらめ、政治家になることを志して上京した。

しかし、新政府のもとでは政治家への道は見つけられず、新聞記者をするなどして生活していたが、明治18年に父・晴岳が死に、病弱だった兄・得楼も5年後に没したため、佐久間家の御用絵師としての血筋はこれで絶えてしまった。そんな時に、鉄園は下条桂谷と出会い、再び絵画を志すことになる。

貴族院議員もつとめた下条桂谷は、日本の伝統芸術の復興を目指して結成された日本美術協会の一員で、革新を提唱する岡倉天心ら「新派」と対立する「旧派」の中心人物だった。そのため鉄園も日本美術協会を中心に活動、受賞を重ね、初期文展では審査員をつとめるなど、旧派の重鎮として活躍した。また、明治33年に『支那歴代名画論評』を、明治40年に『鉄園画談』を著し、画作だけでなく評論でも知られる存在となった。

佐久間鉄園(1850-1921)さくま・てつえん
嘉永3年仙台生まれ。仙台藩御用絵師・佐久間晴岳の二男。兄は佐久間得楼。名は方誼、字は正卿、通称は健寿。はじめ栗園といい、晩晴閣主人ともいった。父晴岳から北画を学ぶが政治家を志し上京。北海道で新聞記者などして生活していたが、下条桂谷と出会い、再び絵画を志した。日本美術協会展で受賞を重ね、初期文展では審査員をつとめ、帝室技芸員となった。著書に『支那歴代名画論評』『鉄園画談』などがある。大正10年、72歳で死去した。

文献:瑞巌寺と仙台藩画員 佐久間家歴代展、仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝

月刊目の眼 2016年9月号 (東北に根付いた文化の証 松島 瑞巌寺 伊達の至宝 三井記念美術館 特別展「瑞巌寺と伊達政宗」)
目の眼




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