川北梅山、中内樸堂と並び、斎藤拙堂門下三傑のひとりに数えられる土井聱牙もまた書画をたしなみ、墨竹を多く残した。また、聱牙の三男・宮橋慥軒、娘婿の須山素朴、拙堂に師事した櫻木春山、拙堂の子・斎藤誠軒らも書画にすぐれていた。ほかに津の画人としては、当時の名士と広く交友があった浜地庸山、岡田半江に師事した木村卓素、田能村竹田に師事した倉田澤上らがいる。
土井聱牙(1817-1880)どい・ごうが
文化14年津生まれ。名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔。初号は松径。津藩儒医・土井篤敬の二男。12歳で家を継ぎ、文学組冗員に充てられ、学を川村竹坡に受けた。のちに石川竹に経義を、斎藤拙堂に古文を学んだ。すべてにおいて優れており、拙堂が老いると藩の子弟はこぞって聱牙の門に入ったという。書画もよくし、特に墨竹を好んで描いた。紀州高野山の僧・大鵬の描いた墨竹巻物を所蔵し、この巻物により画技を研究したとされる。明治13年、64歳で死去した。
宮橋慥軒(1854-1886)みやはし・そうけん
安政元年生まれ。名は得、通称は参三郎。土井聱牙の三男。山田の宮橋家の養子となった。詩文および書画をよくした。明治19年、33歳で死去した。
須山素朴(1838-1865)すやま・そぼく
天保9年生まれ。須山三益の嗣子。字は徳夫、通称は道益。土井聱牙の娘婿。聱牙の門に入って儒学を修めた。聱牙はその英才を愛し娘との結婚をとりもった。詩書に長じ、画も巧みで特に花鳥を得意とした。慶應元年、28歳で死去した。
櫻木春山(1822-1903)さくらぎ・しゅんざん
文政5年津東検校町生まれ。須山三益の二男。諱は正宏、字は士毅、通称は彌十郎。櫻木家の養子に入った。はじめ楽山と号し、のちに春山と改めた。学問を好み、年少の頃に藩儒・三宅棠陽に学び、のちに斎藤拙堂、川村竹坡らにつき、詩文をよくした。余技に画を描き、山水が巧みだった。明治36年、83歳で死去した。
斎藤誠軒(1826-1876)さいとう・せいけん
文政9年生まれ。名は正格、字は致卿、通称は徳太郎。のちに父の名を継いで徳蔵と改めた。斎藤拙堂の子。性格は温良で寡黙、しかも学力は深邃にして詩が巧みだった。余技で画をよくしたという。明治9年、51歳で死去した。
浜地庸山(1775-1835)はまち・ようざん
安永4年生まれ。櫛形の人。幼名は大助、名は任重、字は伯仁、通称は十郎兵衛。別号に画痴斎がある。幼い頃から詩文を好み、また画が上手かった。当時の名士たちと広く交友があった。貫名海屋、津阪東陽、大窪詩佛、岡本花亭、巻菱湖らとは詩文を語り、日根野対山、野呂介石、浦上春琴、岡田半江らと画法を論じたという。天保6年、71歳で死去した。
木村卓素(不明-1872)きむら・たくそ
安濃郡新町古河の人。岡田半江に師事した。明治5年、91歳で死去した。
安藤五琴(1806-1871)あんどう・ごきん
文化3年生まれ。伊勢久居藩士。諱は参世、通称は榮左衛門、のちに權太夫と改めた。別号に静穏がある。3歳で父を亡くし、長じて儒学を佐野竹亭、河原田春江に学び、剣術を塚原流師範家に、槍術を宗藩内海雲石に、画を幸田皆春に学んだ。すべて堂に入ったものだったが、特に画に優れていた。文政10年に江戸詰めになった際には南宗画も研究したとされる。明治4年、66歳で死去した。
中尾篁汀(1840-1902)なかお・こうてい
天保11年生まれ。通称は平兵衛、字は元長。家は伊勢津北町にある代々続く旅館・野口屋。狂言師で藤井六三郎と称した。幼い頃から画を好み、野田半谷、池田雲樵に師事し、山水を得意とした。明治35年、63歳で死去した。
岡野石圃(不明-不明)おかの・せきほ
文政中の伊勢久居本町の人。名は享、字は元震、別号に雲津、大和主人がある。京都に住んでいて画名は高かった。清人・李漁の芥子園画伝による粉本の布置を初めて成し、これによって李漁の説が世に広まった。『石圃娯観集』『石圃百名山譜』など著書も多い。
岡松濤(不明-不明)おか・しょうとう
近代の人。津に住み画をよくしたと、明治初年版の津諸名士番附中に画家として掲載されている。
加藤豊春(不明-不明)かとう・ほうしゅん
近代の人。一斗亭と称した。津市入江町に住み、染物を業とするかたわら画をよくした。
曾谷宗淨(不明-不明)そや・そうじょう
通称は彦右衛門。長曾我部家の画臣だったが、藤堂高虎の懇望によって津藩に仕えた。土佐派の名手とされる。大黒天を得意とした。
倉田澤上(不明-不明)くらた・たくじょう
近代の人。名は孝信、字は子順。聲畫舫澤上漁人の号がある。津市澤の上で米問屋を営んでいた。田能村竹田に学び南画をよくした。
三重(8)-画人伝・INDEX