
狩野甚之丞「帝鑑図屏風」(左隻部分)
狩野甚之丞(不明-不明)は、狩野宗秀の子で、狩野永徳の甥にあたる。慶長6年、病の床にあった父の宗秀は、兄永徳の子・光信にあてて遺言状を書き、息子・甚之丞の養育を託した。光信は叔父の末期の願いに応え、家老と思われる狩野小左衛門あてに書状を送ったが、その間、宗秀は他界してしまった。
書状には「我らはいま伏見や大坂の御用で忙しくて京都にいることも稀だから、貴殿が甚吉殿(甚之丞の幼名)に心を懸けてやってくれ」と記していた光信だが、その後、甚之丞は光信様式を受け継いで、とくに人物表現において個性を発揮し、風俗画のジャンルで優品を残した。
狩野派は、甚之丞らの世代までは永徳が切り開いた桃山絵画の遺風を継いで風俗画を手掛けていたが、次の江戸狩野の探幽の時代になると、封建体制下での武士格に取り込まれ、このジャンルは禁じ手として封印してしまったため、掲載の「帝鑑図屏風」は狩野派最後の近世初期風俗画の一例といえる。
狩野甚之丞(不明-不明)かのう・じんのじょう
京都生まれ。狩野宗秀の子。幼名は甚吉。号は真設。慶長19年名古屋城本丸御殿の対面所の障壁画を描いた。元和9年宗家安信の跡目相続に際し誓約書に署名。寛永3年二条城行幸御殿の障壁画制作に参加した。生没年は不確かだが、46歳で死去したとされる。
京都(61)-画人伝・INDEX
文献:狩野永徳と京狩野







