盛岡藩では、江戸時代中期に絵師を「御絵師」(常府と国元)と御小納戸支配の御絵師に区別している。江戸詰めの「常府御絵師」としては、麻布一本松狩野家の初代狩野休山(1655-1724)の三男・狩野永碩(1683-1752)が享保2年に召し抱えられ、以後、狩野休意(1817-1881)が幕末に盛岡に移るまで代々江戸の盛岡藩に仕えた。
麻布一本松狩野家とは、幕府表絵師のひとつで、狩野永徳の実弟・狩野休伯長信の三男・初代狩野休円(1627-1703)を始祖とする家系である。表絵師は、江戸城への登城を義務付けられた旗本格の奥絵師と違い、御家人格で帯刀は許されなかった。
盛岡藩の常府御絵師となったのは、狩野永碩が分家して興した家系だが、本家も代々盛岡藩から扶持を支給されたり、藩邸内の屋敷を与えられるなどの支援を受け、藩内から江戸に上る人々の絵の指導などを行なっていた。
狩野休円(初代)(1627-1703)かのう・きゅうえん
寛永4年生まれ。名は清信、通称は内記。幕府表絵師・御徒町家の狩野休伯昌信の弟で、休伯長信の三男。明暦元年朝鮮通信使来朝の際、朝鮮王国へ贈る屏風を制作したり、明暦3年の江戸城本丸御殿の再建に参加した。幕府から拝領した木挽町屋敷に住み、南部家から5人扶持を支給された。元禄16年、77歳で死去した。
狩野休山(初代)(1655-1724)かのう・きゅうざん
明暦元年生まれ。名は是信、通称は内記、杢之助。狩野休伯昌信の二男。初代狩野休円の養子。幕府から拝領した麻布新町に住んでいた。養父とともに明暦3年の江戸城本丸御殿の再建に参加。元禄14年南部家から10人扶持を与えられた。森休印是郷は門弟。享保9年、70歳で死去した。
狩野永碩(1683-1752)かのう・えいせき
天和3年生まれ。名は一信。通称は金五郎入道。享保2年に盛岡藩から召し抱えられ、狩野休意が幕末に盛岡に戻るまで代々江戸詰めのお抱え絵師として盛岡藩に仕えた。宝永6年の内裏造営に絵師のひとりとして参加し、正徳3年に下向する藩主・利幹のお供で一時盛岡に滞在している。宝暦2年、69歳で死去した。
狩野休円(2代)(1729-1802)かのう・きゅうえん
享保14年生まれ。名は為信。狩野休山徳信の子。宝暦11年家督を相続した。別号に東都麻布山人がある。天明7年当時、麻布一本松にあった盛岡藩下屋敷に住んでいた。享和2年、74歳で死去した。
狩野松林(不明-1835)かのう・しょうりん
名は喜信。二代狩野休円の子。のちに休円を襲名する。盛岡藩奥詰となる。門弟に藤田祐昌喜一がいる。天保6年死去した。
狩野休補(1726-1775)かのう・きゅうほ
享保11年生まれ。名は次信。狩野永碩の子。通称は金五郎。宝暦2年父の跡を継いで盛岡藩絵師となった。安永4年、50歳で死去した。
狩野休雪(1781-1827)かのう・きゅうせつ
天明元年生まれ。名は礼信。狩野休補の孫。幕府表絵師・駿河台狩野家の狩野洞白愛信に学んだ。兄の入円且信の跡を継いだ。文政10年、47歳で死去した。
狩野休意(1817-1881)かのう・きゅうい
文化14年生まれ。名は誠信。狩野休雪の子。別号に心正斎がある。駿河台家の狩野洞白春信に学んだ。神田御玉ケ池に住み、一時金山図制作にあたった。幕末に盛岡に帰った。明治14年、65歳で死去した。
狩野春碩(1845-1913)かのう・しゅんせき
弘化元年江戸生まれ。名は存信。別号に反可斎がある。会津藩江戸詰絵師の永峰晴水に、ついで奥絵師浜町家の狩野董川中信に学んだ。幕末父に従って盛岡に移り、明治8年からは湯口村に置かれた扱い所で書役をつとめた。明治30年盛岡に戻り、明治42年に上京するまで盛岡を中心に活動した。明治37年から5年間、盛岡高等女学校で図画教員となった。大正2年東京において69歳で死去した。
岩手(1)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸