※萩谷セン喬の「セン」は「僊」の「ニンベン」をとった字
萩谷セン喬(1779-1857)は、林十江の2年あとに水戸藩士の家に生まれ、奥右筆や書院番などをつとめ、屋敷は水戸城下の下梅香にあった。諸家に学び、画を得意としていたため、立原杏所が江戸詰めになったのちは、水戸藩での文雅の御用に多く関わったとされ、藩主・徳川斉昭の肖像画や、藩校弘道館の小襖絵などが残っている。
御用以外にも、表や奥の風流事に通じ、彰考館や弘道館で活躍した青山延于・延光親子ら多くの水戸藩士と交流し、彼らの求めに応じて花鳥画や人物画を描いている。林十江や立原杏所とともに「水戸の三画人」と呼ばれ、門弟も多く、主な門人としては、篠原香山、山田遷民、大高岑峯、川上遷有、村岡岳民、力石遷公、石井石欄、岩間東芝らがいる。
参考:周囲に理解されないまま37歳で世を去った奇才・林十江
参考:谷文晁門下四哲のひとり・立原杏所
萩谷セン喬(1779-1857)はぎのや・せんきょう
安永8年生まれ。水戸藩士萩谷敬の長男。名は徹、字は霓夫、通称は八介。水戸市下梅香町に住んでいた。池田凉岷の弟子といわれるが、定かではなく、月僊に私淑したともいわれる。烈公に愛され、公命によって烈公の甲冑肖像画、好文亭のふすま絵、弘道館の墨梅の図を描いた。林十江、立原杏所とともに水戸の三大画人とされる。安政4年、79歳で死去した。
茨城(12)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、茨城県立歴史館報(12)、近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・セン喬