江戸中期広島の代表的絵師として知られる岡岷山(1734-1806)は、はじめ狩野派の勝田友溪に手ほどきを受け、のちに南蘋派の名手とされる宋紫石に学び影響を受けた。岷山は藩の御用絵師として領内各地を観察写生し、藩主や諸家の求めに応じて多くの画を描き、絵画を志す人々の指導にあたり、その後の広島藩の画風を方向づけたといえる。藩主・浅野重晟(1743-1813)も岷山の指導により多くの優品を残している。岷山の二男・小倉武駿(不明-1839)も父の手ほどきを受け、南蘋派の彩色画をよくした。広島藩青山内証分家に仕えた小島雪そう(1806-1878)も南蘋派の花鳥画が巧みで、岡岷山に劣らぬ名手とされた。
岡岷山(1734-1806)
享保19年生まれ。広島藩士。名は煥、字は君章、通称は利源太。号は岷山正武と款記したものもある。幼いころから藩絵師の勝田友溪に学び、のちに宋紫石に沈南蘋風の画を学んだ。藩の御用絵師として活躍するかたわら、門人の指導にあたった。累進し奥詰となったが、藩主重晟の隠居に際してこれを辞し、重晟の近習から近習詰頭取に就任した。文化3年、73歳で死去した。
浅野重晟(1743-1813)
寛保3年生まれ。浅野家の七代藩主。学問を好み、軍学や砲術をよくするとともに、城内に学問所を興し、頼春水らを教授として藩内の教育にもつとめた。画業では岡岷山を重用し、公務にあたらせるとともに自らも指導を受けて優れた花鳥画を描いた。縮景園の改修・整備も行なった。文化10年、71歳で死去した。
小倉武駿(不明-1839)
広島藩士。岡岷山の二男。のちに小倉氏の養子となった。名は之駿、通称は健次郎。号は楊州岡之駿、楊州武之駿と款記したものもある。父に学び、沈南蘋風の花鳥画を描いた。藩にあっては奥小姓次席から奥詰に進んだ。天保10年死去した。
小島雪☆(1806-1878)(☆は「山」+「青」)
文化3年江戸生まれ。名は貞喜、字は子幹、通称は金次郎。青山にあった広島支藩(青山内証分家)の藩士。号の雪☆(「山」+「青」)は藩邸のあった青山にちなんだものとみられる。宋紫岡に学んだとされる。文久3年、広島支藩が青山を引き払い、広島藩内の吉田に帰還することになったとき、それに従い江戸定詰を解かれ御物頭となった。廃藩後も吉田で過ごし多くの作品を残した。明治11年、72歳で死去した。
立野芳山(不明-不明)
広島の人。名は敬眞。岡岷山の門人。はじめは藩の供足軽だったが、のちに絵師となった。
村上菊田(1811-1881)
文化8年生まれ。広島藩士。名は忠翼、通称は藤馬、のちに亦人と改めた。初号は松厳だったが、好んで菊の画を描いたため、菊田と改めた。幼いころから小倉武駿について学んだ。詩文にも長じ、書もよくした。明治14年、71歳で死去した。
広島(8)-画人伝・INDEX
文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展