画人伝・群馬 日本画家 花鳥画

日本画と工芸の両分野で活躍した大出東皐

大出東皐「山の小川の春」

大出東皐「山の小川の春」

江戸神田に生まれた大出東皐(1841-1905)は、3歳の時に父に従って桐生に移り住んだ。8歳のころから三輪神社小島宮司のもとに通って書法を習い、天満宮神官・前原互瀬について南画の初歩を学んだ。さらに織物用図案を家業としていた石田九野について花紋の修業もはじめた。

19歳の時、織物図案の師・九野に随伴して江戸に出て織物事業設立にかかわったが失敗。九野は桐生に帰ったが、東皐は江戸に残り、中沢雪城宅に寄寓して書法を学び、藤堂凌雲に花鳥画を学んだ。凌雲は山本梅逸の門人で、東皐の作品にも梅逸の作風が受け継がれている。

明治維新後は生活が困窮したため、やむなく東京から撤退し、静岡、愛知など東海地方を流転したのち、明治3年頃から約10年間、瀬戸で陶器の下絵を描いた。名古屋博覧会に出品して好評を博したのを契機に、フランス、アメリカなど海外にも製品を進出させ、瀬戸陶業の発展に大きく貢献した。

明治29年、55歳の時に第1回絵画共進会の第1部(東洋伝統画法)で最高賞の銀賞を受賞。明治30年の日本画会の創立に際しては、佐竹永湖、山岡米華、荒木十畝らとともに幹部として活動するなど、工芸分野だけでなく日本画壇でも活躍した。晩年は、郷里の桐生で百画会などを開催し、閑雅な生き方を娯しんだ。

東皐と同世代の群馬の画家としては、前橋出身で森東渓の子である森霞巌(1842-1908)がいる。霞巌の子・広陵も寺崎広業に師事して画家となっており、森家は三代にわたって活躍した。また、次世代では、東皐と並んで群馬南画界異色の画人と評される大塚榛山(1871-1944)が、10年の歳月をかけて法隆寺金堂壁画の修復を行なうなど、壁画家として名声を高めた。

大出東皐(1841-1905)おおで・とうこう
天保12年江戸神田生まれ。名は絢、幼名は愛次郎、字は素巧。別号に愛梅、桐江などがある。3歳で父に従い桐生市に移り、前原互瀬、石田九野に学んだ。江戸に出て織物会社設立事業にかかわったが失敗。巻菱湖門下の中沢雪城の家に寄寓し、書道を修めた。また藤堂凌雲に花鳥画を学んだのち、諸国を遍歴した。一時期、瀬戸で陶器の下絵も描いた。明治23年コロンブス博覧会出品の紋緞子織下絵を描いた。明治26年のシカゴ博覧会に出品された森山芳平の四季草花模様卓被(東京国立博物館所蔵)の図案原画は東皐の作品である。明治38年、64歳で死去した。

森霞巌(1842-1908)もり・かげん
天保13年前橋生まれ。名は寅三郎。森東渓の長男。紺屋町(現在の前橋市千代田町)に寺子屋を開いた。桃井小が創設されると、稲毛六郎以下5人の教員のうちのひとりに選ばれた。しばしば東京に出て、川端玉章、橋本雅邦と交友した。長子の広陵が同じく画家になって東京で寺崎広業の門下となってからは、前橋の玉泉寺で絵筆をとった。晩年中風を病み、明治41年、66歳で死去した。

大塚榛山(1871-1944)おおつか・しんざん
明治4年吾妻郡坂上村生まれ。農業兼酒造業を営む大塚七郎平(一説には徳太郎)の長男。名は文治郎。中之条の吾妻高等小学校を卒業して農業に従事していたが、優れた画才を知った郷土の俳人・河辺梅白らの勧めにより、20歳の時に上京して滝和亭に師事した。南画の技法を学んだのち、京都、奈良で古美術を研究、桜井香雪から古美術の着色法も学んだ。また、10年の歳月をかけて法隆寺金堂壁画の修復にもあたり、以来、壁画家としての名声が高まった。その後も近畿地方の神社仏閣をまわり、特に平安時代に最も発達し、仏画などの彩色に用いられた切金について研究した。群馬県立近代美術館に法隆寺金堂壁画(6号壁阿弥陀浄土)の模写がある。昭和19年、73歳で死去した。

群馬(16)-画人伝・INDEX

文献:群馬の近代美術、上毛南画史、群馬県人名大事典




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