高崎藩士・矢島兵左衛門定喜の子として江戸藩邸に生まれた矢島群芳(1798-1869)は、幼いころから画を好み、はじめ大西圭斎に入門、のちに椿椿山に師事した。花鳥図を好み、特に鶴の描写を得意とした。
父を継ぎ高崎藩士となったが、その後脱藩して諸国を旅して歩いた。弘化4年6月から8月には高崎藩銚子領に逗留し、請われて坂東札所飯沼観音北堂の杉戸および鏡智院杉戸に絵を描いている。
和漢の歴史に通じ、禅学を修めるなど学識深く、また武芸にも秀でており、その名声を惜しんだ高崎藩主の召還をうけ、のちに帰郷した。晩年は制作を続けたが、藩士の要請に応じるほどに過ぎなかったという。
矢島群芳(1798-1869)やじま・ぐんぽう
寛政10年江戸生まれ。高崎藩松平侯家臣・矢島兵左衛門定喜の子。本姓は新田支流の一之井氏だが、祖考高崎藩に仕えるに及び、故あって矢島氏を名乗った。名は行善、字は仲恭、通称は直記。別号に烟壑、百華、烏汀漁人、清硯斎、復古堂などがある。はじめ大西圭斎に入門、同門に岡本秋暉がいた。のちに椿椿山に師事した。その後脱藩して諸国を旅して歩いた。花鳥画、特に鶴の絵を得意とした。明治2年、71歳で死去した。
群馬(9)-画人伝・INDEX
文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、新編 高崎市史(通史編)3、上毛南画史、群馬県人名大事典