江戸中期になると、建築・彫刻分野で名工、名人が登場する。松田太右衛門は、高山及び近在の寺院建築に腕をふるい、門下から優秀な人材を輩出した。太右衛門の技は師弟相伝で受け継がれ、弟子に東雲勘四郎、今井庄兵衛らがいる。さらに勘四郎の流れからは坂下甚吉、村山群鳳ら出て、庄兵衛の流れからは「不世出の天才」と称された谷口与鹿が出ている。
谷口与鹿は、若くして彫刻の名手として知られていたが、さらに宮彫師として名のあった信州諏訪の和四郎にも彫技を学び、作品は神技に近いものがあったという。特に祭り屋台の彫刻に力を注ぎ、麒麟台、恵比寿台、金鳳台、鳳凰台、神楽台などすぐれた作品を残している。生来の酒好きで、のちに摂津伊丹の酒造家の知遇を得て同地に移り住んだ。
松田太右衛門(不明-1746)まつだ・たえもん
高山の人。初名は久勝、のちに以治。名工といわれた又平衛の子。27歳で清見村の了徳寺建築時の棟梁を務めた。以後、高山の歓喜寺、東等寺、随縁寺、円徳寺、日枝神社本殿、神岡町の大国寺などを棟梁として建築した。弟子に東雲勘四郎、今井庄兵衛がいる。延享3年、54歳で死去した。
東雲勘四郎(不明-1788)しののめ・かんじろう
高山の人。名は光則。東雲貞光の子。松田太右衛門に師事し、同門の今井庄兵衛とともに高弟といわれた。安永8年2月に日枝神社拝殿を請け負った。天明8年、62歳で死去した。
今井庄兵衛(不明-不明)いまい・しょうべい
松田太右衛門の高弟で、谷口与鹿の祖。松田のもとで副棟梁として寺院建築に携わった。
谷口与鹿(1822-1864)たにぐち・よろく
文政5年高山生まれ。名は宗咸、字は玄機。別号に与六、与麓、無醒がある。父の延儔に手ほどきを受け、信州諏訪の名工和四郎に彫技を、京都で吉田公均に画を学んだ。高山祭り屋台に多くの彫刻を残しており、麒麟台「唐子群遊」、恵比寿台「手長足長」、琴高台「鯉」などが著名。のちに摂津伊丹の造酒家の岡田家の食客となって、勤皇の志士の頼山陽、橋本香坡らと交わり、孝明天皇に「兎と木賊」の香盒を献上した。山崎弘泰に和歌を学んだ。ことのほか酒を好んだ。元治元年、43歳で死去した。
浅井一之(不明-1865)あさい・かずゆき
高山下三之町の人。通称は和助。屋号は桐山屋。谷口与鹿・延恭の兄弟に師事。高山祭り屋台の鳳凰台「浪渡獅子」、石橋台「竜と牡丹」、神楽台「狂獅子牡丹」が残っている。慶応1年、35歳で死去。
岐阜(11)-画人伝・INDEX
文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典