画人伝・福島 南画・文人画家 花鳥画

豊麗な「牡丹画」のスタイルを完成させ、特に「牡丹に孔雀図」を得意とした野出蕉雨

野出蕉雨「孔雀牡丹図」

会津若松城下の武士の家に生まれた野出蕉雨(1847-1942)は、画を好み、15歳ごろから同じ会津藩士である塩田牛渚について南画を学んだ。藩主・松平容保が京都守護職として在任中は、藩命をもって京都に出向き、任務のかたわら、先に上京していた牛渚から再び画を学び、のち山本琴石にも学んだ。

慶応4年、22歳の時に戊辰戦争に参戦し、西郷頼母に従って勢至堂峠に出陣、籠城戦に入ってからは宝積寺不明口を守って戦ったが敗戦した。戊辰戦争後は、一時農業や裁判所雇などをしていたが、本郷の瀬戸町に移り住んで焼物の絵付けをしたり、絵付師の指導をしたりしていた。

明治10年ごろに若松七日町の阿弥陀寺東側に居を移し、本格的に制作活動を開始し、明治17年、37歳の時に上京して滝和亭の門に学んだ。このころ豊麗な「牡丹画」のスタイルを完成させ、特に牡丹に孔雀の図を得意とした。健康に恵まれ、病気としては81歳の時に肺炎を患ったくらいで、95歳の長寿をまっとうした。

野出蕉雨(1847-1942)ので・しょうう
弘化4年若松米代三の丁生まれ。父の名は八左衛門。名は善次、通称は平八。はじめ会津藩士・塩田牛渚について南画を学んだ。戊辰戦争後は、一時農業や裁判所雇などをするが、本郷の瀬戸町に住み陶画の指導などをした。明治10年ころから本格的に制作活動を開始し、明治17年上京し、滝和亭に学んだ。主な門人としたは、勝田蕉琴、大堀半仙、梁取蕉園らがいる。画のかたわら、宝生流に秀で、会津謡曲の振興に尽力し、仕舞にも堪能だった。昭和17年、95歳で死去した。

福島(18)-画人伝・INDEX

文献:会津の絵画と書、野出蕉雨展、会津人物事典(画人編)




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