墨溪を祖とする越前曾我派は、天正元年(1573)の朝倉氏滅亡とともに一乗谷から姿を消したが、この時の曾我派の絵師としては、4代宗誉と5代紹祥が想定されている。5代紹祥は、その後曾我派とかかわりの深かった飛騨高山に移住したと思われるが、定かではない。
また、5代紹祥は、能登の長谷川等伯の最初の師だったと伝わっていることから、等伯も一乗谷で画を学んでいたと思われるが、朝倉氏が滅亡した天正元年には、等伯は堺か京都で作画活動を行なっていたと考えられている。
当時の泉州堺(現在の大阪府堺市)は、文人墨客や新鋭の芸術家が多く住み、新興文化都市として活気に満ちていた。この堺を等伯が訪れたころには、曾我6代となる曾我直庵がすでに移住していたと思われ、5代紹祥が直庵のいる堺行きを等伯に勧めたとも考えられている。
曾我直庵は、詳しい伝記が残っていない謎の多い画人だが、5代紹祥の子とも伝わっており、かなり早い時期に堺に移住していたと考えられている。先見性に富んだ直庵が、次の時代の新しい絵画を求めて堺を活動の場とし、この地で新たな曾我派を興したとされる。直庵の画系は、子の二直庵が受け継いだ。
曾我直庵(不明-不明)そが・ちょくあん
越前の曾我派5代紹祥の子とも、紹祥に学んだとも伝わっている。桃山時代の堺で曾我派を再興し、長谷川等伯や狩野永徳、山楽とともにこの時代を代表する絵師となった。史料が少なく経歴は明確になっていない。「蛇足六世」を名乗っている。
曾我二直庵(不明-不明)そが・にちょくあん
曾我直庵の子とされる。曾我派を継承し、直庵と同じく鷹画を得意とした。
福井(02)-画人伝・INDEX
文献:越前朝倉の絵師たちと李朝絵画展、福井県立美術館所蔵品目録3、越前人物志(上)