宇和島を中心とする南予地方は、松山を中心とする中予地方とは高い山々でへだてられおり、むしろ九州との海上交流のほうが盛んで、県内でも固有の気風・文化をはぐくんできた。さらに、慶長19年からは仙台藩主・伊達政宗の長男秀宗が藩主として宇和島藩を治めることとなり、伊予八藩のなかでも特異な文化圏を形成することとなった。絵画の分野においても、中央からの狩野派ではなく、写生派の三好応山・応岸父子らが活躍した。他にも、猿を得意とした奇人・大内蘚圃(1764-1842)や、宇和島から大分県の杵築に移った孤高の水墨画家・村上天心(1877-1953)、さらには、高畠華宵(1888-1966)、畦地梅太郎(1902-1999)ら個性的な画家が出ている。
三好応山(1792-1849)
寛政4年宇和島本町生まれ。宇和島本町頭取、紺屋頭取。名は三郎兵衛。三好家は代々町頭取と紺屋頭取をつとめた豊かな商家であり、応山は幼いころから画を好み、土佐鉄山の門に入って学んだとされる。京都風の画工を自称し、最も人物画を得意とした。二人の子がいて、長男に家督を譲り、二男の応岸に画技を授けて分家させた。作品は宇和島地方に多く残っている。嘉永10年、58歳で死去した。
三好応岸(1832-1909)
天保3年宇和島本町生まれ。三好応山の二男。名は又八郎。幼いころから画を好み、画を描く父の傍らで描く真似をして楽しみ、長じて父に師事して画技を学び、父の一文字を受け「応岸」と号して分家した。旧藩主伊達宗徳の知遇を得てしばしば用命を受け、なかでも「月下の山犬」は最も称賛を受け、三度も揮毫したという。明治15年、第1回内国絵画共進会の第六区に、写生派の画家として出品。明治17年の第2回内国絵画共進会では、第五区の円山派の画家として出品している。明治42年、78歳で死去した。
愛媛(8)-画人伝・INDEX
文献:伊予文人墨客略伝、人づくり風土記 38 愛媛