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有島武郎と美術グループ「黒百合会」
2021/7/6
有島武郎「やちだもの木立ち」北海道大学農学部蔵 「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる小説家・有島武郎(1878-1923)も、黎明期における北海道美術の発展に貢献したひとりである。東京に生まれた ...
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北海道生まれ第一世代の美術家を育てた林竹治郎
2021/7/6
林竹治郎「朝の祈り」北海道近代美術館蔵 明治30年代になって、東京美術学校出身の2人の美術教師が、いわば美術の開拓使の役割を担い、相次いで札幌に移住してきたのが、北海道美術の本格的なはじまりといえる。 ...
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ニシムイ美術村と沖縄の洋画家
2021/7/6
安谷屋正義「残照」沖縄県立博物館・美術館蔵 戦後、沖縄は米軍による軍政という異民族支配を受けることになった。米軍は沖縄の文化芸術を高く評価し、1948(昭和23)年には、首里儀保町に「ニシムイ美術村」 ...
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国際スパイ組織に協力して検挙され獄死した画家・宮城与徳
2021/7/6
宮城与徳「月光像」 1942(昭和17)年、ソビエト連邦のスパイ組織による日本国内での情報活動が発覚し、各メディアは「ゾルゲ事件」としてセンセーショナルに報道した。この事件の首謀者は、ドイツ人を父に、 ...
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池袋モンパルナスの画家・南風原朝光と詩人・山之口貘
2021/7/6
南風原朝光「野菜と果物」 1935(昭和10)年は、全国的に喫茶店が大流行した年で、池袋西口にあった喫茶店「コティ」でも、画家や文士、学生たちが集まって、連日にぎわいをみせていた。その片隅で黙々と原稿 ...
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沖縄で初めて本格的な油彩画を紹介した山本森之助
2021/7/6
山本森之助「琉球の燈台」東京藝術大学大学美術館蔵 沖縄県で洋画技法が普及するのは、明治30年代に入ってからである。洋画の普及に大きな影響力を持ったのは、明治後期に本土から派遣された美術教師たちで、沖縄 ...
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セザンヌを日本に初めて紹介した有島生馬と二科会の発足
2024/12/11
有島生馬「大震記念」 有島生馬(1882-1974)は、横浜市生まれだが、父親が薩摩川内市の出身で、鹿児島の画家との関わりは深い。文学者の兄・有島武郎、弟・里見弴とともに、有島三兄弟としても名高い。有 ...
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鹿児島洋画壇の黄金期をつくった山下兼秀と谷口午二
2021/7/6
山下兼秀「県庁前を避難する島民」鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵 鹿児島市に生まれた山下兼秀(1882-1939)は、東京美術学校では師の黒田清輝に可愛がられ、周囲からは白馬会研究所を継ぐものと思われ ...
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鹿児島近代洋画第三の巨匠・和田英作
2024/12/14
和田英作「渡頭の夕暮」東京藝術大学大学美術館蔵 黒田清輝、藤島武二につぐ鹿児島近代洋画第三の先達である和田英作(1874-1959)は、明治29年に東京美術学校に西洋画科が開設された際、藤島と同時に助 ...
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制作と評論を並行して行ない前衛美術の世界を切り開いた瑛九
2021/7/6
瑛九「カオス」1957年 宮崎を代表する画家に、既成の美術団体や権威主義を拒否し、独学で前衛表現の道を切り開いた瑛九(1911-1960)がいる。宮崎市に生まれた瑛九は旧制宮崎中学校を中退し、14歳で ...
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宮崎県女性洋画家の草分け・落合ラン
2021/7/6
落合ラン「百日草」 落合ランは、宮崎県の女性洋画家で初めて帝展に入選し、宮崎の女性画家の草分けとされる。ランは、明治20年北方町曽木の名家に生まれ、延岡高等小学校を首席で卒業、16歳の時に上京して女子 ...
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東京で学んだ宮崎県の洋画家
2021/7/6
山田新一「冬着のアーニャ」 宮崎から新しい美術を求めて東京に向かった画家としては、日本画では山内多門、益田玉城、大野重幸、根井南華があげられる。洋画では塩月桃甫が、東京美術学校に学び、その後台湾に渡っ ...
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台湾美術振興に大きく貢献した塩月桃甫
2021/7/6
塩月桃甫「舞子」 宮崎県西都市に生まれた塩月桃甫(1886-1954)は、宮崎師範学校を出て東京美術学校に進んだ。卒業後は大阪の浪華小学校、松山の師範学校で教師をつとめ、松山では、高浜虚子ら文人と交流 ...
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宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎
2021/7/6
有田四郎「霊峰霧島」宮崎県立美術館蔵 宮崎の美術教育に大きく貢献した人物に有田四郎(1885-1946)がいる。有田は東京に生まれ、幼時を熊本県で過ごした。東京美術学校では黒田清輝に師事し、和田英作と ...
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90年の生涯いっぱいに多彩な画業を展開した中澤弘光
2024/12/11
中澤弘光「カフェの女」宮崎県立美術館蔵 宮崎出身ではないが、ゆかりの画家に中澤弘光(1874-1964)がいる。中澤は父親が旧佐土原藩士で、東京に生まれた。早くに両親を亡くし、10代の前半から鹿児島の ...
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米国で肖像画家として活躍した伊達孝太郎
2021/7/6
伊達孝太郎「少女」 宮崎における最初の本格的洋画家は、伊達孝太郎(1878-1964)とされる。伊達は、宮崎県高岡町に生まれ、宮崎師範学校を卒業後、旧制小、中学校で図画教師をつとめていたが、明治35年 ...