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黄檗肖像画家・喜多元規とその画系
2021/7/6
喜多元規「黄檗肖像画」 17世紀中頃、黄檗宗の僧・隠元隆琦が渡来し、我が国に黄檗宗を伝えると、木庵性稲や即非如一、独立性易ら黄檗僧が続々と渡来し、長崎は黄檗文化の一大中心地となった。中国黄檗僧の渡来に ...
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南蛮美術と長崎の南蛮絵師
2021/7/6
伝山田右衛門作 天文12年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、続く天文18年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた。この時に来日したポルトガル人やスペイン ...
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佐賀美術協会の創立と佐賀出身の画家たち
2021/7/12
高木背水「練馬風景」 大正2年、東京上野の茶屋に久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀県出身の画家が集まった。メンバーは久米、岡田のほかに、田雑五郎、山口亮一、御厨純一、北島浅一、さらに藤田遜ら東京美術学校の在 ...
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北島浅一ら東京美術学校に学んだ佐賀の洋画家
2021/7/12
北島浅一「パリの踊り子」 明治20年に東京美術学校が創設され、29年に西洋画科が新設されると、佐賀県の若者たちも上京して洋画を学ぶようになった。明治期に東京美術学校西洋画科に学んだ佐賀県出身の者として ...
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明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎と岡田三郎助
2023/9/27
久米桂一郎「残曛下絵」 黒田清輝とともに日本洋画に外光派の画風を取り入れ、洋画団体白馬会を結成するなど、明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎(1866-1934)は、佐賀城下に生まれ、8歳の時に ...
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百武兼行によってはじまる佐賀洋画
2023/9/27
百武兼行「マンドリンを持つ少女」 佐賀藩最後の藩主となった鍋島直大は、維新後は新政府の要職につくほか、明治4年には政府派遣の欧米視察団としてアメリカに渡り、その後はイギリスに留学した。その時に直大に随 ...
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天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派
2021/8/10
天龍道人「鷹図」 18世紀に入ってから盛んになった南画では、文化6年に92歳で没した異数の人・天龍道人(1718-1809)がいる。天龍道人は、肥前鹿島に生まれ、のちに諸国を漫遊し諏訪で一家を成した。 ...
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名所図会絵師として名を高めた長谷川雪旦と唐津藩
2021/7/8
左:長谷川雪旦「草花図」右:長谷川雪堤「蝦蟇仙人図」 唐津藩の御用絵師としては、文化14年以降この地を治めた小笠原氏の絵師となった江戸の画家・長谷川雪旦(1778-1843)が知られている。雪旦は、4 ...
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草場佩川と多久の先覚者
2021/7/6
早い時期から東原庠舎や多久聖廟が創建された多久では、文教の基盤が確立され、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した先駆者を多く輩出した。多久生まれの草場佩川(1787-1867)は、詩歌書画にすぐれ ...
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鱗が1枚欠けた蟠龍・御厨夏園による多久聖廟の天井画
2021/7/14
御厨夏園「多久聖廟の天井画」 佐賀藩多久領四代領主・多久茂文(1669-1711)は、幼いころから学問を好み、18歳で家督を相続してからは、多久の人々の教育促進のため、学問所である東原庠舎や、孔子像を ...