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東三河における小華門(1)
2024/12/29
明治7年に渡辺小華が豊橋に移り住み、従来の石峰・文笠一門であった画家たちも南画一色となり、小華門は最盛期を迎える。小華門下では、遠江の山下青厓、豊橋の深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、田原の井 ...
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崋椿系が根付く前の東三河画壇(2)
2024/12/29
鈴木拳山(1842-1915)すずき・きょざん 天保13年宝飯郡下地村(現在の豊橋市)生まれ。名は潜、字は子龍。前号に龍雨または成道がある。嘉永5年頃から稲田文笠の門で学び、のちに江戸に出て鈴木鵞湖に ...
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崋椿系が根付く前の東三河画壇(1)
2024/12/29
後に絶大な勢力となる崋椿系が根付く前の東三河では、円山・四條派を学んだ恩田石峰や原田圭岳、そして谷文晁に学んだ稲田文笠らが中心的な画人だった。ほかには海山宗恪、三宅友信、金子豊水、大河内信古らがいた。 ...
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東三河随一の画人・太田山陰
2022/8/12
江戸中期に赤坂(現在の豊川市)で活躍した太田山陰は、当時、東海道第一の画人と称されており、東三画人伝には「文化・文政以前における東三河地方随一の画家は山陰であろう」と記されている。平成24年に豊川市桜 ...
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近世の東三河画人
2024/12/29
江戸前期の東三河画人としては、元禄年間に久世出雲守が吉田藩主だった頃にお抱え絵師として横田養休がいた。抱六町辺(現在の花園町付近)に住んでいたと言われ、喜見寺のや吉田神社の絵馬に遺墨が残っている。江戸 ...
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大正から昭和初めにかけての遠州画人
2024/12/29
大正から昭和初めにかけて、山下青厓ら崋椿の流れをくむ渡辺小華門下をはじめ、遠州に縁のあった川村雨谷門下や、松林桂月門下、小室翠雲門下、竹内栖鳳門下など様々な師系の日本画家が活躍、それに加えて山根仏頂亭 ...
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遠州における岸派
2024/12/29
遠江において岸派を学んだものは、石川晶斎、宮本龍嶺、駿河に柴田泰山がいる。画派としては南画におされて振るわず、極少数派であった。岸駒(参考)に学んだものに巫山がいるが、その経歴は不明である。この時期の ...
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独自の技をもった南画家たち
2024/12/29
当時の遠州では、隆盛を誇った崋椿系だけではなく、独自の技をもった南画系も数多くみられた。楚州に師事した黄檗宗禅僧・禅統をはじめ、野賀岐山、石川鴻斎、金原霞汀、柏木緑雨、高橋月査、田中梅崖、杉山小谷、新 ...
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小華へと続く崋椿の流れ
2024/12/29
多くの崋山・椿山門下生を輩出している遠州画壇にあって、渡辺崋山の子であり、崋山没後は福田半香がひきとり椿椿山が指導した渡辺小華へと流れが続いていくことは自然なことだった。遠州画壇を盛り上げた小華門下に ...
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自適にして名を求めず・中村生海
2024/12/29
平井顕斎(1802-1856)は、福田半香と並び称されながらも、画壇にあって不遇であり門弟に恵まれたともいえない。顕斎の門弟は出生地の川崎地方と浜松地方に多く、浜松に思斎の子、樋口如璋、曳馬村に中村翠 ...
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遠州における椿山門下
2024/12/29
明治に入り、渡辺崋山門下によって培われた南画全盛の気運が、この期に結実したとみられる盛況をみせた。椿椿山(1801-1854)の門下では、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘の三人が名をなした。 椿椿山(18 ...
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遠江南画の全盛
2024/12/29
文晁に次いで、さらに遠江と深い関係にあったのが渡辺崋山である。崋山門下として椿椿山と並んで双璧といわれた福田半香、さらに平井顕斎が出るにいたって、遠江の南画は全盛を迎えた。半香、顕斎の門下からは、小栗 ...
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遠江画壇における文晁・以弘の門人たち
2024/12/29
江戸後期における遠州地方の南画は、掛川藩お抱え絵師だった村松以弘によって始まったとされる。以弘は月僊に学び、その後上京して江戸の谷文晁に学んだと伝えられる。遠江画壇に大きな影響を与えた文晁門下には、他 ...
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遠州第一の好事家・大庭松風
2024/12/29
遠江絵画史の黎明期にすぐれた画蹟を残した国学者・内山真龍(1740~1821)の晩年頃、掛川駅を中心とした地域に画人の一団が台頭してきた。当時の掛川駅は、遠江における学芸文化の府であり、画事においても ...
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茨城(10)-ネット検索で出てこない画家
2024/12/28
三好元一 みよし・げんいち 寛政5年生まれ。水戸藩士。幼名は徳太郎。公務の余暇に画を酒井抱一(参考)の門に学び、のちに尾形光琳派の花鳥を研究した。天保14年、51歳で死去した。 三浦呉舟 みうら・ごし ...
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茨城(9)-ネット検索で出てこない画家
2024/12/28
道口雪窓 どうぐち・せっそう 水戸の人。名は貞徳。立原杏所に学び、のちに松平雪山の門人となる。杏所の偽筆をよくしたといわれる。元治元年死去。 成田益親 なりた・ますちか 名は小次郎。石岡の総社三十六歌 ...