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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2022/9/3
谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学しており、その折に讃岐に足を運んだもの ...
2022/9/3
讃岐の南蘋派画人としては、三木文柳(1716-1799)と亀井東溪(1748-1816)が知られている。文柳は、もと阿波の藩士で、幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋 ...
2022/9/3
中川馬嶺(1783-1860)も長町竹石の高弟のひとりで、幼いころから竹石に学び、高松松平家の家臣・大久保家に召し抱えられた。門弟には片山豊泉、松原墨江、赤松陶濱、三枝保年、久保梅亭、畑尾茶庵らがいる ...
2022/9/3
長町竹石の高弟として知られる佐々木雲屋(1776-1831)は、幼いころから画を好み、竹石に師事して絵事を学び、「虹の滝」の席画が認められて藩主に召し抱えられた。山水、竹、花などを得意とした。「竹を描 ...
2022/9/3
高松藩の家老だった木村黙老が著した『聞ままの記』によると「田中松峯、名ハ正路、號を五峰といふ醤なり京師に遊学して大雅堂(池大雅)に書画を学ふ、當国の漢画ハ我始祖なりといへり」とあり、田中松峯が讃岐南画 ...
2022/9/3
高松に生まれた黒田綾山(1755-1814)は、池大雅門下の福原五岳に学び、師の五岳同様に人物画を得意とし、明画、とりわけ美人画の名手とされる銭貢に私淑し、主題、構図、筆法、彩色法などを学んだ。五岳の ...
2022/9/3
讃岐において、狩野派の画僧・實山と並び称されるのが、土佐派の流れを汲む画僧・鶴洲である。後年の活動から鶴洲を土佐派の画人とするには異論もあるが、鶴洲は、住吉派の祖である住吉如慶の子であり、住吉具慶の弟 ...
2022/9/3
讃岐を代表する画僧・實山も狩野派の画人である。實山は江戸の人で、狩野家の養子となったが、のちに実子が生まれたために僧となり、享保年間は高松の見性寺で住職をつとめ、隠居して自性庵に住んだ。『讃岐国名勝図 ...
2022/9/3
江戸時代は幕府の御用絵師に狩野派が登用されていたため、全国的に狩野派の絵師を召し抱える藩が多く、高松藩においても二代藩主松平頼常の頃、もしくは初代頼重の終わり頃に、狩野派の絵師・狩野常眞(不明-169 ...
2024/12/21
愛媛生まれで「俳聖」と称される正岡子規は、単なる俳人としてとらえられる人物ではなかった。新聞記者や雑誌の創刊など多彩な活動をし、絵も描いた。子規のまわりには、おなじ間口の広さを持った文士や画家たちが集 ...
2025/3/27
洋画の黎明期にあって、愛媛出身の洋画の先達としては、下村為山と中川八郎があげられる。当時は、洋画の技法を修得するには上京して画塾などで指導を受けるしかなく、下村為山(1865-1949)も、明治15年 ...
2021/7/9
明治も20年代になると、岡倉天心、フェノロサらの提唱により東京美術学校が開設され、日本美術院が創立されるなど、「新日本画」を標榜する革新運動が活発になっていった。京都における諸流派も近代絵画の影響を受 ...
2025/2/24
吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光 ...
2021/7/9
天野方壺の登場で全盛を迎える伊予南画だが、伊予画壇において方壺と双璧と謳われたのが続木君樵(1835-1883)である。君樵は庄屋の家系に生まれ、幼いころから書画に親しんだ。土居町を中心として多くの画 ...
2021/7/9
幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京 ...
2021/7/9
伊予南画の先駆的な存在としては吉田蔵澤(1722-1802)があげられる。蔵澤が長崎南画との出会いによって墨竹を始めたころは、ちょうど池大雅や与謝蕪村らによる日本南画の黎明期にあたり、蔵澤の先駆性はは ...