本荘市の永泉寺山門は、本荘藩最後の藩主・六郷政鑑の時代に、永泉寺六世義門達宣の発願によって3年の歳月をかけて慶応元年に完成したもので、昭和43年に秋田県有形文化財に指定されている。山門の楼上には、本荘画工を代表する牧野雪僊、増田象江、阿部永暉、鈴木梅山の絵師たちによって四方の壁に8人の天女の姿が描かれている。
正面には、牧野雪僊による琵琶を弾く天女と鼓を打つ天女、北面には、増田象江による横笛を吹く天女と太鼓をたたく天女、東面には、阿部永暉による笙を奏でる天女と蓮華を持って舞う天女、南面には、鈴木梅山による銅拍子を鳴らす天女と五色の蓮華の花びらを散華する天女が描かれている。
牧野雪僊は、狩野派の絵師で、祖父・永昌、父・雪僊と三代にわたって本荘藩の御用絵師をつとめた。増田象江は、江戸に出て谷文晁や山本梅逸について南画を学び、その後増田九木の養子となり、養父の没後に家を継いで御用絵師となった。阿部永暉は、江戸で狩野派を学び、帰郷後は地元で絵を描いた。鈴木梅山については伝記もなく、詳細は不明だが、狩野派の流れをくむ絵師で、祖父、父、梅山と三代続いた御用絵師と考えられている。
阿部永暉(1807-1869)あべ・えいき
文化4年本荘市子吉字葛法生まれ。阿部和右衛門の一族。幼いころから画を好み、青年になると家を弟にまかせて江戸に上り、狩野隆則の門人となって十数年学び、帰郷後は姉の嫁ぎ先である宮下村の阿部与五左衛門家に住んで絵を描いた。晩年には生家に戻った。明治2年、63歳で死去した。
鈴木梅山(不明-不明)すずき・ばいせん
祖父は玉林斎梅枝、父は団平(遊景斎梅山か)。三代続いた本荘藩の御用絵師とみられる。狩野派の流れをくみ、俗に「鳥こ梅山」と呼ばれるほど鳥の絵を得意としたという。明治初年に没していること以外に詳しい伝記がない。
秋田(14)-画人伝・INDEX
文献:本荘の歴史、秋田書画人伝