篁牛人(1901-1984)は、富山県婦負郡桜谷村(現在の富山市)の浄土真宗本願寺派善照寺の住職の子として生まれた。尋常小学校を卒業後、富山県立工芸学校図案科に進んで中島秋圃に学び、卒業後は同校卒業生で組織する富山工芸会に参加し、工芸作品の図案家としての活動をはじめた。
20代から30代は薬袋やポスターなどの図案の仕事に従事し、商工省工芸展覧会では出品作品の図案を担当して受賞を重ね、図案家として将来を嘱望されたが、昭和初年頃からピカソや藤田嗣治、小杉放菴らに感化されて画家を志すようになり、昭和15年頃からは絵画制作に専念した。
第2次世界大戦での従軍生活を経て、終戦後に南方から復員し、昭和22年頃から渇筆法による独自の水墨画を描くようになったが、思ったような評価は得られず、生活は困窮していく一方で、ついに制作を中断し、昭和30年頃から約10年間は放浪して過ごした。
転機となったのは昭和40年頃で、後援者に恵まれ、美術評論家の河北倫明から好意的な批評を得るなど、生活の支援や周囲の理解が得られるようになって活動を再開、地元富山で大規模な個展を開催するなど旺盛な制作活動を展開させた。
晩年になってその異才が評価され、さらに画境を極めていくかにみえた牛人だったが、昭和48年に急性アルコール中毒で入院し、退院後も自宅療養を続けるなか、脳卒中のため83歳で死去し、渇筆画を精力的に描いた期間はわずか10年ほどに終わってしまった。
篁牛人(1901-1984)たかむら・ぎゅうじん
明治34年富山県婦負郡桜谷村(現在の富山市)生まれ。浄土真宗本願寺派の住職。本名は篁浄信、幼名は光麿。別号光麿・牛山人。富山県立工芸学校を卒業。同校卒業生で組織する富山工芸会に参加、工芸作品の図案を制作し受賞を重ねた。昭和15年頃から絵画に専念し、ピカソらの感化を受ける。昭和22年頃から独自の渇筆法で制作を行ない、主題を東洋思想に求めた。昭和59年、83歳で死去した。
富山(26)-画人伝・INDEX
文献:篁牛人生誕120年記念 水墨画の世界、墨・その孤高の世界、富山の文人画展、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、現代美術の流れ[富山]