栃木県足利市の長林寺には、狩野派の始祖・狩野正信(1434?-1530?)の筆による「観瀑図」(掲載作品)が伝わっている。長林寺は、館林から転じて足利長尾氏の初代となった但馬守景人によって文安5年に開かれた長尾氏の菩提寺で、曹洞宗に属する関東屈指の古禅林である。本図は、長尾氏四代の憲長が正信に描かせて寄進した作品とされ、上部には、李白の詩「望廬山瀑布」を意識した、相国寺鹿苑院の横川景三(1429-1493)による賛がある。
狩野正信については、出自や生没年など不明な点が多いが、関東出身とする説の根拠のひとつが本図とされる。狩野永納著『本朝画史』によると、正信の父は伊豆狩野氏の出身と記述されており、一方、上総狩野氏に関する史料にも正信と擬定される人物の記述がみられる。画技は京都に出て小栗宗湛に学んだとされ、如拙、周文の画法も研究し、宗湛没後に宗湛の跡を継いで足利幕府の御用絵師になったと思われる。
当時の水墨画家は禅宗の僧が多数で、正信は日蓮宗だったので、禅宗的水墨画から個性的な筆法を創案し、狩野派の画風をつくったとされる。
足利長尾氏は、長尾景虎(上杉謙信)や上杉家の執事として活躍した長尾景仲とも同族で、長林寺には、景長、憲長、政長と続く歴代による自画像も伝わっている。なかでも景長は、武将画人として知られ、自画像のほかに本格的な「山水図」も残している。
狩野正信(1434?-1530?)かのう・まさのぶ
享禄3年頃生まれ。狩野派の開祖。姓は藤原、名は伯信、通称は四郎次郎、のちに大炊助。別号に性玄、剃髪して祐勢、または友清、祐盛。狩野永納著『本朝画史』によると、正信の父は狩野次郎景信といい、相州小田原の人で、伊豆国加茂郡狩野村に住み、画を好み足利義教に仕えていたとされる。正信ははじめ父に絵の手ほどきを受け、のちに京都に出て小栗宗湛に学んだとされ、如拙、周文の画法も研究し、宗湛没後に足利幕府の御用絵師となり、越前守式部大輔に任じられ、のちに法眼に叙せられた。没年に関しても諸説ある。
長尾景長(1469-1528)ながお・かげなが
文明元年生まれ。足利長尾氏第三代。足利長尾氏の祖・景人の二男。はじめ房景を名乗った。兄の定景が早世したため長尾家の跡目を継いだ。勧農の地から足利荘を見下ろせる両崖山城を修復し、ここを本拠とした。画業に優れ、長林寺に自画像が収蔵されている。享禄元年、60歳で死去した。
長尾憲長(1503-1550)ながお・のりなが
文亀3年生まれ。足利長尾氏第四代。景長の長男。狩野正信の山水図を長林寺に寄進した。画業に優れ、和歌もよくした。越後の長尾景虎が越後守護代の地位についた時に「天地もただ一かたにおさまれる君がためしや千代の初雪」との祝い歌を贈り、景虎から返歌をえている。天文19年、48歳で死去した。
長尾政長(不明-不明)ながお・まさなが
足利長尾氏第五代。のちに景長と称した。三代景長と同名となったため混同されがちである。政長の時代、足利長尾氏の支配領域は足利はもとより館林領も含み、著しく拡大した。永禄5年には足利城を去って館林城に移った。
栃木(1)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木県の美術、栃木県歴史人物事典