近世大坂において風景版画が盛んになるのは嘉永・安政期からで、そのきっかけとなったは、諸名所を描きそれに説明文を加えるという「名所図会」の登場だったとされる。最初の「名所図会」は、安永9年に刊行された京都案内をテーマとした『都名所図会』で、著者の秋里籬島(不明-不明)に協力して竹原春朝斎(不明-不明)が挿絵を描いた。これが評判となり、以後名所図会は大流行した。
春朝斎は、『都名所図会』が刊行される2年前にも大坂の名所・名物を案内する『浪花のなかめ』を刊行するなどこの分野の先駆的存在で、『都名所図会』刊行後にも籬島とのコンビで『大和名所図会』『摂津名所図会』など多くの名所図会の挿絵を手掛け、小説や狂歌本などにも挿絵を描いた。
摂津国(現在の大阪府の大半と兵庫県の一部)の名所を紹介した『摂津名所図会』は、籬島が手掛けた多くの名所図会の中でもいちばんの長編で、寛政8年と同10年の2度に分けて9巻12冊が刊行された。反響は大きく、たびたび再版され、その度に内容も改められた。
挿絵の主筆は春朝斎がつとめ、寺社の境内図など俯瞰の絵のほとんどを描いたが、他にも人物を織り込んだ名所風俗を描いた丹羽桃渓をはじめ、春朝斎の子・竹原春泉斎、下河辺維恵、石田友汀、西村楠亭、西村中和、秀雪亭らの絵師も加わっている。ところが、全12冊が刊行されたあとの後刷では、春朝斎以外の絵の大半が丹羽桃渓のものに差し替えられている。当時三十代半ばで絵師として上り調子だった桃渓への評価の高さがうかがえる。
春朝斎の子・春泉斎も、父に画法を学び、『摂津名所図会』に挿絵を描いたほか、『東海道名所図会』『絵本浪華男』『絵本百物語』などにも挿絵を寄せた。そのほとんどが寛政・文化期のもので、『二十四輩順拝図会』には、春泉斎の名勝霊地を写す才能を賞賛した享和3年の岡田玉山の一文が記されている。
名所図会は幕末に至るまで間断なく刊行され、上記絵師のほか、蔀関月、岡田玉山、石田玉山、上田公長、浦川公左、暁鐘成、松川半山ら多くの大坂の絵師たちが手掛けている。
竹原春朝斎(不明-不明)たけはら・しゅんちょうさい
大坂の人。名は信繁。安永6年刊の『難波丸網目』に大岡春卜の門人だった坂本春汐斎の門人として登場する。『郷友・寛二』には「竹原門次」と別名が記されており、これが原名かもしれないが、本姓は松本氏という説もある。木村蒹葭堂と交流があったことが蒹葭堂日記に記されている。著作に『浪花のなかめ』『都名所図会』『大和名所図会』『摂津名所図会』などがあり、発行は明和から享和に及ぶ。
丹羽桃渓(1760-1822)にわ・とうけい
→蔀関月に学び風俗人物画を得意とした丹羽桃渓
竹原春泉斎(不明-不明)たけはら・しゅんせんさい
大坂の人。竹原春朝斎の子。画法を父に学んで風俗人物画を描き、版刻の密画を得意とした。著作に『二十四輩順拝図会』『東海道名所図会』『絵本浪華男』『絵本百物語』などがある。
秋里籬島(不明-不明)あきさと・りとう
京都の人。名は仁左衛門。別号に舜福、湘夕、班竹がある。著作は約30点あり、その領域は多岐にわたり、名所図会のほか、俳諧作法書『俳諧早作伝』、軍書『信長記拾遺』、読本『忠孝人竜伝』、実用書『絵引節用集』、歴史物の図会『源平盛衰記図会』、随筆『赤星さうし』などがある。安永5年から文化7年までの活動が確認できる。
大阪(51)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、「摂津名所図会」を読む