近世の大坂画壇では、橘守国の橘派、大岡春卜の大岡派とともに、吉村周山の吉村派が活躍した。吉村派の祖・吉村周山(1700-1773)は、狩野派の牲川充信に学び、狩野派の骨法を墨守して大画制作に取り組み、一家を成して後は大岡春卜と並び称された。
法橋時代の落款を持つ光明寺の襖絵群は、のびやかな筆致で山水、人物と花鳥が描かれており、周山が大画制作に本格的に取り組んだことが伺える。掲載の「住吉社頭図屏風」は、法眼落款を有する作品で、住吉社を北から眺め、太鼓橋(反橋)と社殿を整然と描いている。
根付彫刻にも巧みで、天明元年に刊行された稲葉通龍『装剣奇賞』には法眼周山の項が設けられ、周山の根付は彩色根付で、当時すでに贋物が多かったと記されている。また同書には子の周圭の識語が載せてあり、それによると、周山ははじめ周次郎と称し、山海経や列仙伝図中に題材を求めて人の意表をつく根付を制作していたが、中年以後ピタリとやめてしまったという。
吉村周山(1700-1773)よしむら・しゅうざん
元禄13年生まれ。大坂の人。牲川充信の門人。名は充興、通称は周次郎。号は周山、探仙(探僊)、探興など。島之内油町二丁目に住んでした。三宅春楼、中井竹山、履軒ら儒者や書画家との交友もあり、山水人物に独自の境地を開いた。著書に『和漢名筆画英』『和漢名筆画宝』『官職補任図絵』などがある。安永2年、73歳で死去した。
大阪(04)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪名家著述目録、近世の大坂画壇、近世の大阪画人