岡本豊彦の内弟子として学んだ古市金峨(1805-1880)は、岡山の四条派普及に大きく貢献した。金峨は児島郡尾原村(倉敷市)に生まれ、17、8歳の時に京都に出て岡本豊彦の門に入った。生家の紺屋にちなんで藍山と号したが、30歳頃に帰郷してから金峨と改めた。県下を中心に積極的な制作活動を展開する一方で、地元や備前一宮などにも出張所を設けて門下を指導し、県内での四条派の普及に大きく貢献した。その後、50歳代の中頃からは時流にかなった南画の技法を取り入れるようになり、以後は時代とともに南画的色彩を濃くしていった。また、岡本常彦は叔父・豊彦の門に入り、一時は豊彦の養子となったが、離縁して岡山に帰り、晩年は洋風画を描いた。
古市金峨(1805-1880)
文化2年児島郡尾原村生まれ。名は猷、通称は啓三または哲蔵。一時千葉姓を名乗ったこともある。家が紺屋だったたはじめ藍山と号したが、のちに金峨と改めた。17、8歳のころ京都に出て岡本豊彦の内弟子となり四条派を修め、塩川文麟らとならんで逸材と称された。天保のはじめ郷里に帰り、生家に画房を構え、また御津郡一宮をはじめ稽古場をつくり門人を教えた。明治13年、76歳で死去した。
岡本常彦(1816-1891)
文化13年生まれ。京都に出て叔父・岡本豊彦のもとで四条派を学び、一時は豊彦の養子となるが、覇気にはしりすぎたためか離縁になり、のちに岡山に帰って県庁につとめ、絵事方面の仕事をしたこともある。晩年には洋画風の遠近法や陰影法を用いた写実画を描いた。明治24年、76歳で死去した。
植田鳳沖(不明-不明)
備中倉敷の人。岡本豊彦に師事して画をよくした。
難波玖嶽(不明-不明)
吉備郡真金村生まれ。古市金峨に師事し、三好雲仙、岡本金波、大守峨山と共に門下生四天王の一人と称された。明治初年ころ、30歳余りで死去した。
三好雲仙(1812-1895)
文化9年吉備真金生まれ。名は安平。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。人物画に巧みで、東海道絵行脚で知られている。吉備津神社、上高田神社に作品が残っている。明治28年、84歳で死去した。
岡本金波(1823-1896)
文政6年備前一宮生まれ。本姓は菅原、諱は麟。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。花鳥、山水、人物を得意とし、備前藩候より特賞を受け、また明治6年には岡山県から褒賞を受けている。明治29年、74歳で死去した。
大守峨山(1830-1895)
天保元年備前一宮生まれ。通称は義記。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。花鳥を得意とした。明治23年第3回内国博覧会をはじめ各展で受賞した。明治28年、66歳で死去した。
深井豊州(1838-1911)
天保9年生まれ。通称は理三郎、名は光英、別号に逸南がある。古市金峨に師事し、門下生10哲の一人にかぞえられた。絵画共進会、内国博覧会などで褒状を受けた。明治44年、74歳で死去した。
渡辺義彦(1831頃-1881)
天保2年頃生まれ。備中の人。名は壽平。別号に貞峰、玉景、金嶽などがある。古市金峨、岡本亮彦に師事した。明治14年、51歳で死去した。
岡部雲程(1812頃-1889)
文化9年頃生まれ。名は保定、字は協中。家は代々浅口郡連島町箆取神社の祠司をつとめていた。はじめ古市金峨に師事し、さらに三宅西浦の門に入った。山水を得意とした。明治22年、78歳で死去した。
岡山(15)-画人伝・INDEX
文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜、一宮ゆかりの画人たち 特別展、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典