東京女子師範学校で絵画と英語を教え、明治の女子美術教育に貢献した武村耕靄は、仙台藩士・武村仁佐衛門の長女として江戸仙台藩邸に生まれた。母の留勢子は耕靄が6歳の時に没したため、直接指導を受けることはなかったが、俳諧、書などをよくしていたといい、耕靄にもその才は受け継がれていたようで、後年、短歌や随筆を手がけ、死の直前まで続けていた日記は、明治の画壇、教育界の動きを知るうえで貴重な文献となっている。
耕靄が絵を学びだしたのは8、9歳の頃で、はじめは狩野探逸、狩野一信、山本琴谷、春木南溟らに日本画を学び、明治7年頃からは川上冬崖に西洋画の技法を学んだ。この頃は家庭が貧窮しており、耕靄はその技術を生かして輸出用の扇面などを描いて家計を助けたという。
また、寸暇を惜しんで横浜の共立女学校で英語を学んでいたのもこの頃で、東京築地に住んでいた米国人の元に通い会話の勉強もした。明治8年に工部省製作寮の助教兼通弁として採用され、明治12年には、米国の元大統領・グラント夫妻が来日して浜離宮で明治天皇と会談した際には通訳もつとめた。
工部省製作寮は明治9年に廃止となったが、東京女子師範学校の英学手伝として採用され、のちに洋画を中心とした絵画の授業も受け持つことになった。洋画では、特に写生の指導に力を入れており、手ごろな手本がなかったため自らの写生をもとにして作図し、それを石版にして生徒に与えていたという。
日本美術協会展や絵画共進会などの展覧会にも出品しており、明治22年の日本美術協会展では皇太后の前で席画を披露している。この時の顔ぶれが、跡見花蹊、野口小蘋、奥原晴湖という著名な女性画家たちだったということからも、画家としての耕靄の評価の高さがうかがえる。
武村耕靄(1852-1915)たけむら・こうあい
嘉永5年江戸生まれ。本名は千佐子。父は仙台藩士。日本画を狩野探逸、狩野一信、山本琴谷、春木南溟に学び、のちに川上冬崖に洋画を学んだ。明治維新で家禄を失った一家を輸出用扇面画などを描いて支えた。横浜・共立女学校で英語を学び、明治9年東京女子師範学校、明治19年東京高等女学校の教職につき、図画教科書を編集するなど手探り状態の女子美術教育に貢献した。また、日本美術協会などの会員としても活躍した。明治31年教職を辞して小石川に画塾を開設。明治41年鎌倉に移住した。大正4年、62歳で死去した。
文献:仙台画人伝、宮城洋画人研究、東北画人伝、女性画家の全貌。
東京女子高等師範学校六十年史 (1981年) (日本教育史文献集成〈第2部 師範学校沿革史の部 1〉) | |
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