薩摩出身ではないが、薩摩藩と関わりのあった絵師に桃田柳栄(1647-1698)がいる。柳栄は江戸前期の狩野派の絵師で、狩野探幽に師事し、探幽門下の四天王の一人に数えられており、「狩野探幽像」(京都国立博物館蔵)の作者といわれている。探幽門下の四天王としては、他に久隅守景、小方守義、神足高雲、鶴沢探山らの名前が挙げられることが多いが、柳栄と守景だけは必ずその中に加えられている。
『古画備考』には、柳栄が薩摩藩に五百石で召し抱えられ、同国に多くの絵があるとの記述があるが、柳栄が薩摩に来たという記録はなく、京都か江戸の薩摩藩邸に出任していた可能性が考えられている。また、五百石は破格の禄高だが、地方の大名が争って優れた絵師を召し抱えたということの表れともとれるし、薩摩藩が数字を大げさにして国威を誇示した可能性もある。
薩摩藩との関係を実証する資料は少ないが、昭和60年に大隅半島の旧家で発見された「官女図巻」は、もと島津家蔵品とされるもので、幅11メートル近くに及ぶ絹本の長巻に、中国の官女たちの生活風俗を描いており、数少ない柳栄の作品の中でも代表作といえる出来栄えを示している。
桃田柳栄(1647-1698)
正保4年生まれ。名は守光、通称は武左衛門。別号に幽香、幽香斎、瑤澤軒がある。絵画のかたわら医道もよくしたと伝えられている。探幽門下四天王のひとりに数えられ、「狩野探幽像」(京都国立博物館蔵、重文)の作者とされている。出身地は現在の大阪府和泉市とされているが確証はない。『大阪伝承地誌集成』には「穴師村の出身で、本姓は和田氏、桃田家の養子となった。兄の和田玄意は高名な医師。異説もあるが、柳栄の幼いころ両親が早世したので庄屋が気の毒がって面倒を見、領主の片桐侯に推薦、侯は利発な彼を愛し、小姓として取立て江戸屋敷に随行、近くに住んでいた探幽に入門させた」とある。『古画備考』には、薩摩藩に五百石で召し抱えられ、同国に多くの絵があるとの記述があるが、薩摩に来たという記録はないため、京都か江戸の薩摩藩邸に出任していた可能性があると考えられている。元禄11年、52歳で死去した。
鹿児島(8)-画人伝・INDEX
文献:江戸の絵画、大阪伝承地誌集成、古画備考、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩摩画人伝、鹿児島市立美術館所蔵作品選集