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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/7/6
左:桑原鳳井「羅婦仙図」(賛:二川相近)右:石丸春牛「柘榴に山鳥図」乳峰寺蔵 江戸後期、狩野派の御用絵師たちが粉本主義に陥り、精彩を失っていくなか、筑前画壇では町絵師たちが独自の画業を展開していた。な ...
2021/7/8
天満宮の門前町として栄えた大宰府は、昔から文人墨客が往来し賑わいを見せていた。文政9年には秋月藩御用絵師を退いた斎藤秋圃が大宰府に移り住み、自由な町絵師として活躍した。秋圃の描いた絵馬は、大宰府、筑紫 ...
2021/7/6
斎藤秋圃「七福神酒宴図」 筑前秋月藩の御用絵師・斎藤秋圃(1769-1861)は、京都に生まれ、円山応挙に学び、応挙没後は森狙仙に師事したと伝えられる。大坂時代の秋圃は、新町遊郭の風俗を題材とした「葵 ...
2021/7/6
梅沢晴峩「鷹摶撃雁図」 柳河藩においては、江戸初期から中期にかけての文書や書画類が多く焼失しており、御用絵師の存在を確認できるのは江戸後期になってからである。それ以前の柳河藩には、福岡藩の尾形家や久留 ...
2021/7/24
左:三谷等哲「山公倒載図」右:三谷等哲「福禄寿図」 安芸国広島に生まれた雲谷派の三谷等哲(不明-1630)は、主家の断絶とともに浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。久留米藩二代藩主・有 ...
2021/7/6
衣笠守昌「牛馬図屏風」(部分) 福岡藩御用絵師筆頭の尾形家が、藩主画像や城郭殿舎の内部絵付、席画や寺社の寄進画の制作などを主な仕事にしていたのに比べ、次席に位置する衣笠家が藩主画像や席画の御用にあたっ ...
2021/7/14
尾形洞水「魚族図」 尾形家は、6代洞谷(1753-1817)の代になって、師家を鍛冶橋狩野家から駿河台狩野家に変更した。また、姓を公式に小方から尾形に改めたのも洞谷の代だった。7代の洞霄(1791-1 ...
2021/7/24
小方守房(狩野友元)「仏涅槃図」長円寺蔵 福岡藩の御用絵師はすべて狩野派で、尾形家、衣笠家、上田家の3家が代々世襲で家督を継いだ。他にも、熊本氏、小森氏、佐伯氏、笠間氏など一代限りまたは随時に抱えられ ...
2021/7/6
狩野昌運「競馬図」絵馬 狩野宗家中橋家で組織の確認と整備を図り、宗家の大番頭と称されていた狩野昌運(1637-1702)は、筑前福岡藩の第4代藩主・黒田綱政に招かれ、晩年の10年余りを福岡藩御用絵師と ...
2024/12/14
前田寛治「西洋婦人像」 鳥取県中部の中北条村国坂の農家の二男として生まれた前田寛治(1896-1930)は、倉吉中学を卒業後、東京美術学校を卒業して倉吉中学に赴任したばかりの中井金三の勧めもあって画家 ...
2021/7/9
中井金三「薔薇」 明治末期から大正にかけて、東京美術学校で学んだ新進気鋭の指導者たちが、鳥取中学、師範学校、倉吉中学に着任し、広く洋画が普及していった。さらに、大正末期から昭和初期になると、美術だけで ...
2024/12/14
森岡柳蔵「読書」倉吉博物館蔵 遠藤董が伝えた油絵の技法や新しい洋画の思想によって、鳥取県の洋画界はしだいに活気を帯び、上京して美術を学ぶものも出てきた。森岡柳蔵(1878-1961)は明治31年に上京 ...
2021/7/9
遠藤董「こともし」鳥取県立博物館蔵 鳥取県にはじめて本格的な油絵を伝えたのは、のちに「鳥取の郷土教育の父」と称される遠藤董(1853-1945)である。遠藤は、狩野派の藩絵師・根本雪峨に学んだのち、東 ...
2021/7/9
八百谷冷泉「一行寺本堂内天井画」一行寺蔵 鳥取市の左官の家に生まれた八百谷冷泉(1887-1959)は、地元の中住道雲に師事したのち、京都に出て山元春挙に入門した。大阪美術学校で後進の指導にあたるとと ...
2021/7/9
菅楯彦「春宵宜行」 鳥取に生まれた菅楯彦(1878-1963)は、幼くして父で日本画家の菅盛南とともに大阪に移住した。父の没後は特定の師にはつかず、諸派の画法を研究し、独自のスタイルを確立した。常に勉 ...
2021/7/9
青木図南「風神雷神図」 京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる青木図南(1790-1859)は、特に人物画を得意とし、一見して誰を描いたかが分かるほどの技量だったと伝わっている。しかし、同時代の鳥 ...
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