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竹田門の四天王のひとりに数えられた博学者・後藤碩田
2021/7/6
後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら、華道や茶道などの文化面にも高い関心を示 ...
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南画の復興と後進の指導に尽力した田能村直入
2021/7/6
田能村直入(1814-1907)の叔父・渡辺蓬島は田能村竹田の初期の師のひとりということもあり、直入は幼いころから画に強い興味を示していて、9歳で竹田に師事した。竹田はその画才を愛し、直入は養子となり ...
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最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人・帆足杏雨
2021/7/6
帆足杏雨(1810-1884)は、最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人とされるが、その一方で、中国画学習を深め、自己の画技を進めていくなかで、独自の画風を確立した。天保9年以降はほとんど大分を離 ...
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竹田門下の夭折の鬼才・高橋草坪
2021/7/6
田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門人のなかで唯ひとり取り上げられていること ...
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近世日本最大規模の私塾・咸宜園を開いた日田の広瀬淡窓
2021/7/6
日田豆田魚町の商家に生まれた広瀬淡窓は、幼いころから漢学・漢詩を学び、24歳の時に家督を弟に譲り、寺の学寮を借りて塾を開いた。塾は移転し、名を「成章舎」「桂林園」と変え、文化14年には、叔父・月化の隠 ...
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耶馬溪の名付け親・頼山陽と豊前中津青村の曽木墨荘
2021/7/6
田能村竹田が生涯もっとも親しく交遊したのが頼山陽(1781-1832)である。山陽は日本外史を著したことで知られる漢詩人で、大坂で生まれ広島で育ったが、その後、居を京都に定め、多くの文人・画人と交流し ...
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田能村竹田と豊後杵築ゆかりの儒者・篠崎小竹
2021/7/6
篠崎小竹(1781-1851)は、近世後期の大坂を代表する文人で、漢詩、漢文に優れ、書家としても高名である。父親が豊後杵築の出身ということもあり、田能村竹田とは京坂の文人グループで親しく交遊し、よく遊 ...
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田能村竹田と豊前中津の雲華上人
2021/7/6
雲華上人(1773-1850)は、姓を末広(弘)といい、豊前国中津の正行寺第十六世住職をつとめた僧である。江戸後期の東本願寺教学の最高学職である講師をつとめ全国を遊説する一方で、田能村竹田(1777- ...
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豊後南画の隆盛・田能村竹田の出現
2021/7/6
田能村竹田(1777-1835)が正統南宗画法によって本格的に南画を描き始めた年には、すでに与謝蕪村、池大雅は没しており、南画では浦上玉堂、岡田米山人、青木木米らが作画を行なっていた。そこに、次世代と ...
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豊後南画の黎明期・田能村竹田の一世代前の画家たち
2021/7/6
江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派が精彩を欠くなか、文人たちの興味は、新たに中国大陸からもたらされた南画に移っていった。二豊(豊後と豊前)においても、田能村竹田(1777-1835)より一世代前 ...
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豊後杵築藩絵師・光琳派の足立秋英
2022/3/30
中津藩と同じく杵築藩でも狩野派の藩絵師の存在は確認できない。時代は下るが、杵築藩第九代藩主・松平親良(1810-1891)が狩野勝川に、藩絵師の足立秋英(1825-1895)が狩野探原に一時期学んでい ...
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豊前中津藩絵師・円山派の片山東籬
2021/7/6
豊前中津藩では、円山派の絵師・片山九畹が、天明5年に「御絵師御茶之間詰」に任命されている。九畹は別号に東籬があり、東籬は片山家歴代龍名の号らしく、子の九皐もまた東籬と号した。九皐の子・藤憧も父に学び、 ...
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豊後岡の町絵師・渡辺蓬島
2021/7/6
岡藩絵師・淵野真斎とともに備中の画人・淵上旭江に学んだ、渡辺家の初代・渡辺蓬島(1753-1835)は、藩に仕えることなく、終身町人絵師として活動した。子の拈華は父の後を継ぎ画家となり、田能村竹田に学 ...
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豊後岡藩絵師・淵野真斎
2021/7/6
竹田市域の大部分を支配した岡藩は、江戸後期から近代にかけて田能村竹田をはじめ多くの画人を輩出した。竹田の初期の師とされる淵野真斎(1760-1823)は藩絵師をつとめ、真斎を初代に淵野家は幕末まで岡藩 ...
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豊後日出藩の狩野派
2021/7/6
豊後三賢の一人にかぞえられる儒者・帆足万里(1778-1852)らを輩出した日出藩は文教の地として知られるが、その基礎は、第三代藩主・木下俊長(1648-1716)の学問奨励に由来するとされる。俊長は ...
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豊後府内藩の狩野派
2021/7/6
府内藩は現在の大分市・由布市の大部分と別府市の一部を支配していた藩で、府内の名はこの地におかれた豊後国府に由来する。鎌倉時代に入ると、大友氏が支配し、21代当主・大友宗麟の時代には、中北部九州を治める ...