- UAG美術家研究所HOME >
- yuagariart
yuagariart
江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2024/12/11
明治26年、10年間のフランス留学を終えて黒田清輝(1866-1924)が帰国した。黒田の留学は、はじめ法律を学ぶためのものだったが、外光派の画家ラファエル・コランとの出会いによって画業に専念すること ...
2021/7/6
鹿児島の画家で最も早く油彩画を描いた床次正精は、本格的な画法の修得のためイタリア留学を希望していたがついに叶わず、独学で洋画技法を学ぶにとどまった。ついで登場した曽山幸彦(1859-1892)は、工部 ...
2021/7/6
日本近代洋画の黎明期、鹿児島からは黒田清輝、藤島武二ら多くの著名洋画家が出て美術史に名を残したが、黒田や藤島よりも早く、鹿児島の画家で初めて油彩画を描いたのは、司法省に入り、検事や判事をつとめていた床 ...
2021/7/6
昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村~」と題して一村の画業が紹介され、大きな反響を呼んだ。 ...
2021/7/6
薩摩藩御用絵師・佐多椿斎の子として鹿児島に生まれた小松甲川(1857-1938)は、上京して明治政府の印刷局石版科長をしていた郷土の絵師・柳田龍雪に師事、同時期に橋本雅邦にも学び、近代的な日本画の影響 ...
2021/7/6
幕末の鹿児島に生まれ、少年期に狩野派を学んだ江口暁帆(1839-1921)もまた、時代の大きな変遷期にあって、伝統と変革の間で揺れ動きながら新しい表現を模索した画家のひとりである。暁帆の作品には、伝統 ...
2024/12/11
江戸幕府や各藩の御用絵師を代々つとめていた狩野派の絵師たちは、江戸時代の終焉とともに職を失い、生活に困窮するものも多く出た。のちに新しい日本画の創造に取り組み、近代日本画創造運動の先駆者となる狩野芳崖 ...
2021/7/6
京都で四条派を学んだ平山東岳は、人物画、花鳥画、山水画など幅広いジャンルの作品を数多く残しているが、その一方、幕末明治の混乱期の薩摩にあって、薩英戦争が勃発すると、決死隊(西瓜売り部隊)の一員として英 ...
2021/7/6
狩野派が大勢を占めていた薩摩でも、江戸後期から明治にかけて円山四条派に学んだ絵師や南画家が登場するようになった。京都で四条派の松村景文に学んだ絵師としては、京都見聞役をつとめていた税所文豹(1809- ...
2021/7/6
佐多椿斎(1817-1891)は薩摩に生まれ、地元の馬場伊歳に師事し狩野派を学んだ。当時の薩摩の絵師の多くが、地元で学んだのち江戸に出て江戸狩野家に入門しているのに対し、椿斎は江戸に出ることはなく薩摩 ...
2021/7/6
能勢一清(1790-1857)は、江戸後期を代表する薩摩藩の絵師で、木村探元の高弟・能勢探龍の曾孫にあたる。幼いころから画を好み、森玄心に学ぶが、15歳の時にその門を辞して、狩野探幽、木村探元に私淑し ...
2021/7/6
伊東養定(1780-1860)は、「養」の付く雅号から木挽町狩野家に学んだと思われるが、その記録はない。狩野晴川院養信が書き溜めた『公用日記』にも名前はない。作品の落款に「正貳法橋」とあることから、藩 ...
2021/7/6
薩摩の絵師は、江戸に出て木挽町狩野家あるいは鍛冶橋狩野家に学んだものが多かったが、谷山洞龍と山口洞月は例外的に表絵師の駿河台狩野家に学んでいる。いずれも四代目当主・狩野洞春美信に学んおり、薩摩の絵師で ...
2021/7/6
江戸後期に鍛冶橋狩野家に入門した薩摩の絵師としては、七代当主・狩野探信守道に谷山探成、児玉探翠、大山等雪が学び、八代当主・狩野探淵守真に大山探賢、園田探浄、樋口探月、樋口淵溪、そして都城出身の長峰探隠 ...
2021/7/6
木挽町狩野家最後の当主となった十代狩野勝川院雅信に学んだ薩摩の絵師としては、柳田龍雲、谷山龍瑞、有田養圓がいる。柳田龍雪(1833-1882)の父親は刀具彫刻を営んでおり、龍雪もはじめは銅版彫刻をもっ ...
2021/7/6
江戸前期には、薩摩画壇と木挽町狩野家とのつながりは深く、多くの薩摩の絵師が木挽町狩野家で学んだが、木村探元の活躍した江戸中期になると、そのつながりは弱くなっていった。江戸中期の薩摩の絵師の多くが探元に ...