画人伝・京都 南画・文人画家 山水・真景

日本南画の大成者・池大雅

池大雅「楼閣山水図屏風」(左隻)国宝 東京国立博物館蔵

池大雅「楼閣山水図屏風」(左隻)国宝 東京国立博物館蔵

池大雅(1723-1776)は、京都の裕福な町人の子として生まれた。幼いころから書の才能を認められ、7歳の時には宇治萬福寺12世の杲堂元昶の前で書を披露し、神童と評された。画については独学で学んだと思われ、15歳の時には画扇と印刻の店を開き、職業画家としての活動をはじめた。この頃大和郡山の柳沢淇園と知り合ったと思われ、淇園に才能を認められ、画法の指導を受け、指頭画も学んだという。

旅と登山を好み、20代後半から30代前半にかけてしばしば旅をしており、出かけると数か月も京都の家を留守にした。26歳の時の旅がはじめての大掛かりなもので、東海道を下り、途中で富士山に登り、江戸に出て、さらに日光に参拝し、松島に遊んだ。江戸にはしばらく滞在し、その間、服部南郭や本草学者の野呂元丈に出会った。

江戸では大雅の指頭画が評判となり、諸家に招かれ、席画して人々を驚かせた。また、野呂元丈宅ではじめて西洋画を見て、その真に迫る描写に驚嘆したといい、その後の大雅の作品には西洋画の影響が認められるようになった。

27歳の時、親友の高芙蓉を誘って北陸に旅立ち、越中立山、加賀の白山に登った。前年の富士山と合わせて名山三岳を踏破したということで、以後「三岳道者」の号を用いはじめた。また、38歳の時には高芙蓉、韓天寿と連れだって再び山岳の旅に出て、立山、白山に登った後、信州の浅間山にも登っている。

28歳の時には紀州に旅し、祇園南海を訪ねた。南海に名を聞かれ、名がないといったところ、無名がよいとして明の陳無名の画帖を贈られ、士丈夫を学ぶように諭された。南海は、大雅について「俗塵中の人にない人物」と賞賛したという。

大雅は、旅を通じて各地の諸家と出会い、その影響を受けながら、明清の文人画をはじめ、室町水墨画、琳派、洋風画など多くを学んだ。その画風は、20代においては彭城百川同様に一定しなかったが、30代を通じて次第に個人様式として成熟してゆき、日本南画を代表するにふさわしい独特の山水画様式を創りだし、日本南画の大成者と称された。

池大雅(1723-1776)いけ・たいが
享保8年京都生まれ。父の池野嘉左衛門は京都両替町銀座中村氏の下役だった。幼名は又次郎、名は勤、字は公敏、貸成。別号に霞樵などがある。清光院一井に師事し幼年期から書をよくした。画は柳沢淇園、祇園南海らの影響を受け、『八種画譜』などの舶載の木版画譜などを通して中国南宗画を独学した。さらに日本の伝統絵画や西洋画の表現法も研究し、のびのびとした描線、明快な色彩、奥行のある空間把握を特色とする独自の画風を形成し、与謝蕪村とともに日本南画の大成者と称された。書においても各体をよくし、篆刻もよくした。妻の池玉瀾も画を描いた。安永5年、54歳で死去した。

京都(89)-画人伝・INDEX

文献:日本絵画名作101選、日本美術全集14、日本美術絵画全集・第18巻、美のワンダーランド 十五人の京絵師、江戸絵画入門、日本画家人名事典




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