画人伝・大阪 南画・文人画家 山水・真景

多年戸を閉ざし古画を模写して一家を成した鼎春嶽

鼎春嶽「煙霞山水図」

鼎春嶽「煙霞山水図」

鼎春嶽(1766-1811)は、福原五岳について画を学び、のちに諸流の画法を研究し、多年戸を閉ざして諸家秘蔵の書画を模写して一家を成したという。田能村竹田は『山中人饒舌』と『竹田荘師友画録』で、天満の居宅の画室に籠り、作画と古画の臨摸に没頭し、昨今の収蔵家の書画の伝来と真贋を論じる春嶽の目利きぶりを伝えている。

また、寛政2年刊『郷友・寛二』には書家として登場することから、能筆でもあったと思われる。木村蒹葭堂とも交流があったことが『蒹葭堂日記』で知られる。

子の鼎金城(1811-1863)は、春嶽が46歳の時の子で、生まれて数カ月で遺児となった。逆境にあって辛苦を忍びつつ、金子雪操、岡田半江に師事した。橋本香坡の撰した墓碑銘によると、父没後、親戚に預けられ、33歳の折に戸田氏の養子となったが鼎姓は捨てなかった。厳しい境遇とは裏腹に、性格は寡黙かつ温和で、半江もその画才を認めていたという。

鼎春嶽(1766-1811)かなえ・しゅんがく
明和3年生まれ。大坂の人。諱は新、元新。字は世宝、通称は太郎右衛門。号は春嶽。福原五岳に学び、のち独学で諸流派を研究し一家を成した。木村蒹葭堂とも交流があり、書家としても知られた。文化8年、46歳で死去した。

鼎金城(1811-1863)かなえ・きんじょう
文化8年生まれ。大坂の人。鼎春嶽の子。名は鉉、字は子宝、俗称は平作。号は金城、受采堂(または受菜堂)。金子雪操、岡田半江に師事した。文久3年、53歳で死去した。

戸田黄山(不明-不明)とだ・こうざん
大坂の人。名は光春。幼いころから画才があり、長じて鼎春嶽に師事した。人物画に秀でていたが、作画を金銭に替えることをよしとしなかったという。『竹田荘師友画録』によると、堂島の酒店主人として毎朝酒桶を担って巷間に売りに出かけ、帰宅後に沐浴して香を焚き絵筆をふるいはじめ、深夜に及ぶことを常としたという。

高寸田(不明-不明)こう・すんでん
大坂の人。名は為澄。号は寸田。一説に高田氏。『竹田荘師友画録』によると、道頓堀に住み、読書と書画を好んで、鼎春嶽を深く信頼していた。いつも竹田を相手に「世に二つとない絶妙の山水画を一幅購い得たら吾が願いが叶えられる」と語ったという。文化から天保にかけての在世が知られる。

大阪(29)-画人伝・INDEX

文献:近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画




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