画人伝・広島 日本画家 風景画

近・現代の中央画壇に大きな影響を与えた広島出身の日本画家

児玉希望「暮春」広島県立美術館蔵

児玉希望「暮春」広島県立美術館蔵

大正・昭和期になると中央画壇で独自の活動をする広島出身の日本画家が出てくる。高田郡生まれの児玉希望(1898-1971)は、写実に基礎をおきつつ、古画や洋画の手法も取り入れ多様な作品を発表、広島で日本画を目指す若者に大きな影響を与えた。希望の遠縁にあたる奥田元宋(1912-2003)は、19歳で希望の門に入り、独自の心象風景を確立、日展の重鎮として活躍した。元宋や広島の洋画家とも交流、異色の活動をした丸木位里(1901-1995)は、「原爆の図」で世界的に名を知られている。また、日展と共に日本画の二大団体である院展では、奥村土牛に師事した塩出英雄(1912-2001)、前田青邨に師事した山中雪人(1920-2003)・水谷愛子(1924-2005)夫妻らが同人として活躍、さらに、東京芸術大学学長、日本美術院理事長を歴任し、文化勲章を受章した、現代日本画壇を代表する日本画家のひとり、平山郁夫(1930-2009)が出る。

児玉希望(1898-1971)こだま・きぼう
明治31年高田郡来原村生まれ。名は省三。大正7年、上京して川合玉堂に師事、下萌会に所属した。大正10年帝展に初入選。昭和25年、伊東深水らと日月社を結成した。昭和28年日本芸術院賞を受賞、昭和33年日本芸術院会員、昭和36年日展常任理事となった。昭和46年、72歳で死去した。

奥田元宋(1912-2003)おくだ・げんそう
明治45年双三郡八幡村生まれ。名は厳三。昭和5年上京、遠縁にあたる児玉希望の内弟子となった。昭和11年文展監査展で初入選。広島出身の洋画家・靉光らと交流した。昭和25年児玉希望、伊東深水らの画塾生を中心とした日月社に参加。昭和37年新日展で文部大臣賞、昭和38年日本芸術院賞を受賞。昭和48年日本芸術院会員、昭和52年日展理事長、昭和56年文化功労者となり、昭和60年文化勲章を受章した。平成15年、90歳で死去した。

三上巴峡(1913-1985)みかみ・はきょう
大正2年三次市生まれ。名は博。中学卒業後、児玉希望の内弟子となった。昭和11年文展鑑査展で初入選。以後日展に出品、新日展で特選となる。日月社に参加。昭和60年、71歳で死去した。

丸木位里(1901-1995)まるき・いり
明治34年安佐郡飯室村生まれ。大正12年上京して田中頼璋の天然画塾で学ぶが、関東大震災で帰郷。昭和9年再度上京し明朗美術研究所で学び、日本南画院展、青龍社、歴程美術協会展、美術文化展などに出品。昭和20年被爆直後に広島に入り、昭和25年の第3回日本アンデパンダン展に「八月六日(原爆の図第1部幽霊)」(丸木俊と合作)を出品、以後、原爆の図シリーズは完成とともに順次公開した。昭和28年国際平和文化賞ゴールド・マダルを受賞、「原爆の図」は世界を巡回した。平成7年、94歳で死去した。

船田玉樹(1912-1991)ふなだ・ぎょくじゅ
大正元年呉市生まれ。名は信夫。昭和7年、広島洋画研究所で山路商に油彩を学び、同年上京して番衆塾に学んだ。昭和9年速水御舟に師事、御舟没後は小林古径の門に入った。昭和11年院展に初入選。昭和13年日本画の革新を目指して岩橋英遠、山岡良文らと歴程美術協会を結成した。昭和38年院展を離れて新興美術院理事となり、その後退会して無所属となった。平成3年、78歳で死去した。

塩出英雄(1912-2001)しおで・ひでお
明治45年深安郡福山町生まれ。昭和6年、帝国美術学校で山口蓬春、平福百穂、川崎小虎らに学び、のちに奥村土牛に師事した。昭和12年院展に初入選。院展で受賞を重ね、昭和35年同人に推挙された。平成13年、88歳で死去した。

山中雪人(1920-2003)やまなか・ゆきと
大正9年広島市台屋町生まれ。昭和11年上京し、翌年川端画学校に入学、昭和13年に東京美術学校に入学して、結城素明、川崎小虎らに師事した。昭和22年同郷の日本画家・水谷愛子と結婚し、横浜に新居を構え、中島清之に師事、昭和26年からは前田青邨に師事した。昭和31年院展に初入選。以後院展で受賞を重ね、昭和61年同人に推挙された。平成15年、83歳で死去した。

水谷愛子(1924-2005)みずたに・あいこ
大正13年広島市南区生まれ。昭和19年女子美術専門学校卒業、山中雪人と結婚し、夫とともに中島清之、さらに前田青邨に師事した。昭和30年院展初入選。以後院展に出品、日本美術院賞などを受賞し、平成12年同人に推挙された。平成17年、80歳で死去した。

平山郁夫(1930-2009)ひらやま・いくお
昭和5年豊田郡瀬戸田町生まれ。昭和20年学徒動員先で被爆、その後も後遺症に悩まされた。昭和27年東京美術学校を卒業し、前田青邨に師事した。昭和28年院展に初入選。昭和31年院展にのちに出世作と称される「仏教伝来」を出品した。以後院展で受賞を重ねた。平成元年に東京芸術大学学長、平成6年に文化財保護振興財団理事長、平成8年に日本美術院理事長に就任した。平成11年文化功労者となり、平成10年文化勲章を受章した。平成21年、79歳で死去した。

広島(14)画人伝・INDEX

文献:広島日本画の系譜




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