画人伝・群馬 浮世絵師

近世高崎の三大画人のひとり・一椿斎芳輝

一椿斎芳輝「初市(高崎・木屋)」

一椿斎芳輝「初市(高崎・木屋)」

一椿斎芳輝(1808-1891)は江戸日本橋の町人の子として生まれた。幼いころから絵を好み、15、6歳の時に谷文晁の門に入り、北年と号した。その後、20歳頃に高崎の旅籠屋・田中勘右衛門の一人娘モヨの婿養子となったが、縁組後も江戸で絵を学んでいたと思われ、20歳代で浮世絵師・歌川国芳に入門、山水花鳥の素養があったため上達が早く、間もなく一椿斎芳輝の号を得ている。

田中家の当主となってからも江戸に出て修業していたかどうかは定かではないが、江戸での活動は短く、錦絵ではわずかに「市川九蔵の三莊太夫」大判が確認されるのみで、創作活動としては、高崎時代の肉筆が中心と思われる。

作品は上州各地に残されており、草津温泉図、川中島合戦その他を描いた六曲屏風、金古宿天田家発行の家伝薬「紅雪」の引き札などがあり、「敷島万代橋之景」は板木のみが残されている。代表作の清水寺観音堂回廊16枚の大絵馬は70歳をすぎてからの作品と思われ、頼まれれば、絵馬はもとより行燈、五月幟、社寺の縁起、お守りまで気楽に描いたという。

高崎では、一椿斎芳輝に矢島群芳(1798-1869)、武居梅坡(1831-1905)を加え、近世高崎の三大画人と称している。さらに同時代に活動した高崎の画人としては、法橋俊芳(1762-1847)、青木周渓(1770-1845)らがいる。

一椿斎芳輝(1808-1891)いっちんさい・よしてる
文化5年江戸日本橋生まれ。歌川芳輝とも呼ばれた。通称は田中芳三郎。初号は北年。日本橋高砂町の町人・米山源四郎の二男として生まれ、のちに高崎新町の旅籠屋田中ヨモの婿養子となった。15、6歳のとき、谷文晁に山水花鳥の画法を学んだ。文晁没後、浮世絵師歌川国芳に学び、一椿斎芳輝の号をもらった。作品は多く残っており、代表的なものは高崎観音山の清水寺回廊に掲げてある16面の大絵馬、清水寺堂内壁画観音像である。明治24年、84歳で死去した。

法橋俊芳(1762-1847)ほっきょうしゅんぽう
宝暦12年大八木村静家生まれ。初名は弥市右衛門、のちに左膳と称した。八幡村神官矢口丹波の娘と結婚し、篠原家を再興して八幡村に住んだ。文化9年法橋に叙された。作品としては、弘間村妙見堂(群馬県群馬町)の絵馬「平忠盛油坊主」が知られている。弘化4年、85歳で死去した。

群馬(05)-画人伝・INDEX

文献:浮世絵大辞典、群馬歴史散歩36号、新編 高崎市史(通史編)3、群馬県人名大事典




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