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庄内地方に鳥羽絵風の戯画を数多く残した土屋鴎涯
2021/7/6
土屋鴎涯「楽しい庄内方言まんが-鳥羽画 磯釣之部 五-」より。磯釣りの様子をコミカルに描き、場面ごとに庄内弁で文章が添えてある。上図は「釣り場で」の章から「俺までひっぱるな」図中庄内弁の意味:なんとい ...
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明治27年の酒田大地震に遭遇し「酒田大震真写図」を描いた恒川鶯谷
2021/7/6
恒川鶯谷「酒田大震真写図」(6点のうち1点) 明治27年10月22日、山形県庄内地方は、当時東北未曾有と称された大地震に見舞われた。災害は庄内全地区に及び、死者718名を出す大惨事となり、最も被害が大 ...
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庄内地方の南画家
2021/7/6
左:伊東梅月「蓬莱之図」、右:佐藤梅宇「孔子像」 庄内藩では、藩の絵師のほかに絵をたしなむ藩士が多かった。石井子龍は、絵を同藩の氏家龍渓に学び、のちに藩医で書家でもあった重田道樹に学んだ。生涯酒を好ん ...
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書画をよくした代々の庄内藩主
2021/7/6
酒井忠発「琴高・乗鶴仙人図」 代々の庄内藩主は、教養として画法を学び、狩野派風の作品を多く残している。藩主に絵を教えた庄内藩の絵師は、初代御用絵師の家系・三村家が三代で終わり、当時若殿だった第6代藩主 ...
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庄内地方を代表する画僧・市原円潭
2021/7/6
市原円潭「閻魔王宮八大地獄図(十王図)」3幅のうち左幅部分 鶴岡・常念寺蔵 酒田の商家に生まれた市原円潭は、幼いころから絵に興味を示し、15歳で江戸に出て、24歳から28歳まで狩野探淵守真のもとで狩野 ...
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日本初の株式会社の設立を画策して毒殺された北斎門下の洋学者・本間北曜
2021/7/6
本間北曜「黒船図」本間美術館蔵 酒田の本間家分家に生まれた本間北曜は、天保13年、出羽矢島藩の小番郡八の養子となり藩主に従って江戸へ上るが、翌年出奔して離縁になった。この頃、小石川巣鴨の根付師・山口友 ...
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葛飾北斎に学んだ庄内藩士・大山北李
2021/7/6
大山北李「工匠乗鶴図」(部分)板橋区立美術館蔵飛騨の匠とおぼしき工匠が、自ら彫った鶴に乗って飛翔しているところを描く。工匠は鶴が飛んでも手をゆるめず、細部の細工にノミをふるっている。下方では同僚の工人 ...
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やまと絵や琳派のスタイルも取り入れた狩野了承
2021/7/6
狩野了承「秋草図屏風」板橋区立美術館蔵 江戸幕府の御用絵師としての地位を得て、巨大な組織をつくりあげていった江戸狩野派は、やがて粉本主義に陥り、創造性を失っていったとされる。しかし、その歴史のなかで、 ...
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庄内藩の御用絵師・三村常和
2021/7/6
左:三村常和(初代)「神農像」右:三村常和(2代)「赤壁図」 元和8年、酒井忠勝が信州松代から庄内に入部し、鶴ケ岡城を居城と定められて以来、城内は着々と整備されていったが、本丸の建物が完成するのは30 ...
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明治大正期、日本画壇旧派の重鎮として政治的手腕を発揮した下條桂谷
2021/7/6
下條桂谷「龍之図」 米沢に生まれた下條桂谷は、はじめ郷里で目賀多家で狩野派の画法を学び、のちに江戸に出て鍛冶橋狩野家の門に入ったとされる。明治8年には狩野探美らと古書画鑑賞会を興し、明治12年に龍池会 ...
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目賀多家に学んだ米沢の絵師たち
2021/7/6
左:若井牛山「陶淵明」、右:佐藤雪斎「龍図」 米沢では絵を学ぶ者の大半が目賀多家に入門したことから、狩野派の画風が主流で、主な絵師としては、目賀多雲川守息に学んだ小田切寒松軒をはじめ、目賀多雲川信済に ...
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目賀多家で最も傑出した名人と伝えられる目賀多雲川信済
2021/7/6
目賀多雲川信済「山水図屏風」(上:右隻、下左隻)米沢市上杉博物館蔵 文政・天保の頃、米沢藩御用絵師の家系・目賀多家の分家である南目賀多家から出た目賀多雲川信済は、南・北目賀多家を通じてもっとも傑出した ...
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目賀多雲川守息に学び人物花鳥の名手として名を馳せた小田切寒松軒
2021/7/6
小田切寒松軒「草蘆三顧図」三面(部分)『三国志』のなかで、劉備が関羽、張飛を引き連れて諸葛孔明の庵を3度訪れ、礼を尽くして軍師として迎え入れたという「三顧の礼」の由来となった場面を描いている。 江戸時 ...
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米沢藩の御用絵師・目賀多雲川守息
2021/7/6
目賀多雲川守息「山水図」 米沢藩の御用絵師をつとめた目賀多家は、幕末にいたるまで代々江戸の鍛冶橋狩野家に入門して画技を習得し、狩野派の画風を継承した。目賀多家は二家あり、本家である幽雲系 ...
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山形県で最も早く名前が登場する画人・郷目貞繁
2021/7/6
郷目貞繁「神馬図絵馬」(重文)天童市・若松寺蔵奉納銘に「観音御宝前 奉納馬形 旦那郷目右京進妻女菩薩故也 寒河江内郷目右京進貞繁(花押)干時永禄六年葵亥九月十八日」とあることから、永禄6年に画家自身が ...