画人伝・沖縄 花鳥画

琉球絵師を指導した福建画壇の画家・孫億

孫億「花鳥図」

17世紀後半から18世紀にかけて、琉球王府は、貝摺奉行所の絵師を薩摩藩や中国の福建省福州に派遣し、現地の画家から直接指導を受けさせた。中国に絵画留学した初の琉球絵師は、石嶺伝莫(1658-1703)と上原真知(1666-1702)で、二人は1683年に福建省福州に渡り、孫億、王調鼎、鄭大観、謝天游らに師事している。また、1704年の第二次派遣では、石嶺伝莫の弟子で宮廷画家の山口宗季が、孫億、順梁亨、鄭大観らから画作を学んだ。

福建省福州には、琉球の出先機関である琉球館があり、琉球の絵師が活動するうえで都合がよく、また、福建地方は琉球と類似した気候帯にあり、その画風が明代の宮廷画の系譜を継ぐことから、写実的で装飾性の強い画風が伝承されており、琉球王府にとって趣向にあった絵画様式だったと思われる。

琉球絵師たちは複数の福州の絵師に学んでいるが、なかでももっとも強く影響を受けたのは孫億(不明-不明)で、その写実的で精細な画風は琉球の絵師に忠実に受け継がれている。孫億は中国絵画史においては決して有名な画家ではなく、関係する文献や史料も極めて少ないが、琉球においては18世紀以降の文献に孫億の名前がしばしば登場し、琉球使節の「江戸上り」の際に孫億画が献上されたことや、謝礼として贈られたことなどが記録されている。

孫億の作品は主に琉球を通じて、薩摩、日本にもたらされ、高級な献上品や下賜品として用いられた。18世紀の日本の花鳥画に大きな影響を与えた沈南蘋は、孫億にやや遅れて主に長崎を通じて日本に伝来しているが、長崎方面の資料に孫億の名前は見られない。

孫億(不明-不明)
福建画壇の画家。長州の人。字は惟年、号は于峰道者。琉球、日本への舶載された作品が多い。慈眼寺所蔵「牡丹鳥蟲図」、京都国立博物館所蔵「三願一遇図」、徳川美術館所蔵「花鳥図」「花鳥図屏風・六曲一双」、MOA美術館所蔵「花鳥図」、沖縄県立美術館・博物館所蔵「花鳥図」などが残っている。画材と画風が多種多様で、花鳥画は装飾性が強く、山水画では水墨画の持ち味を表出している。

石嶺伝莫(1658-1703)
1658(万治元)年那覇生まれ。久米島出身の古波蔵筑登之親雲上伝満の長男。はじめ唯莫、のちに伝莫と改めた。21歳の時に絵師に登用された。1683年上原真知とともに中国に渡り、王調鼎、謝天游、孫億に学んだ。1687年に帰国し、翌年御茶屋御殿能仁堂の障壁画を描いた。同年絵師主取となった。作品は現存しない。1703年、45歳で死去した。

上原真知(1666-1702)
1666(寛文6)年那覇生まれ。仲宗根親雲上真代の長男。画才を早くから認められていたと思われ、1683年石嶺伝莫とともに中国に渡り、王調鼎、謝天游、孫億に学んだ。1687年に帰国し、翌年筑登之位となった。1700年には王命を乞い、習絵事として進貢使節に加わり中国に渡ったが、1702年学習を終え中国から琉球への帰国の途中に台風に遭い船が転覆、36歳で死去した。作品は現存しない。

沖縄(2)-画人伝・INDEX

文献:大和文華第125号、沖縄美術全集4、琉球絵画展




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