中村芳中(不明-1819)は、生年は明らかでないが、諸書によると、京都に生まれ、その後大坂に移住し、寛政2年にはすでに大坂で画家として一家を成している。また、寛政6年刊『虚実柳巷方言』には指画(指頭画)の名手として紹介されている。
木村蒹葭堂、十時梅厓らと親しく交友し、『蒹葭堂日記』には、青木木米を蒹葭堂に紹介したのは芳中だと記されている。また、池大雅に私淑し、その妻玉瀾との交友を物語る逸話も残されている。俳諧を好み、俳画や俳書の挿絵もよくし、画賛などからは当時高名な俳人や茶人との交友も数多く知られる。
南画から出発したと推測される芳中だが、次第に琳派に傾倒し、たらし込みを多用した著色の草花図を多く手掛けるようになる。そしていよいよ琳派への移行を決意したのか寛政11年頃に江戸に出て3、4年間滞在し、その間、享和2年に自作による色摺絵本『光琳画譜』を出版し、それを機に「光琳風」と評されるようになった。
その後再び大坂に戻り、文化年間には船場平野町に住み、扇面画を中心に琳派様式の作品を描き、70代半ばで没したと推測されている。
中村芳中(不明-1819)なかむら・ほうちゅう
京都に生まれ大坂に移住したと思われる。名は徳哉、字は芳中(鳳冲、方中)。別号に温知堂、達々などがある。木村蒹葭堂と親しく、また青木木米や十時梅厓、池大雅の妻玉瀾ら南画家とも親密な交流があった。指頭画で名を馳せた時期があり、俳諧にも関心を広げている。寛政11年から3、4年江戸に滞在し、松代藩主を隠居した真田幸弘のもとに出入りした。享和2年江戸で自作による『光琳画譜』を発行した。文化年間頃は、大坂船場に住んでいたと伝わっている。文政2年死去した。
大阪(37)-画人伝・INDEX
文献:日本の美「琳派」展一九九六、絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇