浜田杏堂(1766-1814)は、幼くして大坂の医師浜田家の養子となり医業を継いだ。一方で早くから画を好み、福原五岳に師事するとともに元明の山水画や花鳥画を学んで一家を成し、山水花鳥を得意とした。享和2年刊『浪華なまり』には流行画人の一人として記されている。
白井華陽の『画業要略』によれば、呉北汀がある時、明画の墨菊図を杏堂に見せたところ大いに奇なりとしたが、やがて杏堂自らこれに勾勒描の竹を補筆して北汀に贈った。その画をもらった北汀は「気韻高古として明人に逼るものがある」と評したという。
木村蒹葭堂、森川竹窓、谷文晁、篠崎小竹らと交流し、蒹葭堂没後の13回忌書画展には「淡鋒山水」を出品している。また、法雲寺にある杏堂の墓碑銘の碑文は篠崎小竹が撰し、森川竹窓が書いている。
浜田杏堂(1766-1814)はまだ・きょうどう
明和3年生まれ。大坂の人。本姓は名和氏。名は世憲、字は子徴。号に杏堂、希庵、痴仙。幼少の時、大坂の医師浜田家の養子となった。医業を継ぐかたわら画を福原五岳に学び、のちに元明画を研究し、山水花鳥を得意とした。木村蒹葭堂、森川竹窓、谷文晁、篠崎小竹らと交友した。文化11年、49歳で死去した。
西竹坡(1779-1843)にし・ちくは
安永8年生まれ。讃岐の人。本姓は寺島氏。名は白受、あるいは子民。字は彩卿、または采卿。俗称は六蔵、のちに勘右衛門。号は竹坡、西渠、醉墨主人。幼くして孤児となったが、画才があったため浜田杏堂に師事し、書は木村蒹葭堂に学んだ。山水図や花卉図を得意とした。酒好きで快活な性格であったと伝わっている。天保14年、65歳で死去した。
大阪(26)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画