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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2022/9/20
本郷越嶺(1900-1970)は、富山県射水郡新湊町(現在の射水市)に生まれ、富山県立工芸学校図案科に入学した。同級生には漆芸家の山崎覚太郎がいた。在校中は開校以来の画才の持ち主だといわれ、同校卒業後 ...
2022/9/16
石崎光瑤は、京都画壇で活躍する一方、京都市立絵画専門学校で20年以上教鞭をとり、40代後半からは私塾を開いて後進の育成に励んだ。 光瑤塾の塾頭をつとめた竹村白鳳(1895-1951)は、高岡市出身で、 ...
2022/9/14
石崎光瑤(1884-1947)は、富山県福光町(現在の南砺市)に生まれた。生家は藩政期から続く名家で、蔵宿業などの事業を手広く営んでいた。父親は漢籍をよくし、雅楽や俳諧なども嗜む教養人で、幼いころから ...
2022/9/12
谷聴泉(1898-1939)は、富山県東砺波郡城端町(現在の南砺市)に生まれ、14歳の時に東京に出て石井林響に画を、中村不折に書を学んだ。書は、若いころから金沢の常福寺住職の北方心泉の書風に心酔して研 ...
2022/9/9
明治30年6月中旬、俳人・正岡子規の高弟・河東碧梧桐(1873-1937)が初めて北陸を訪れ、富山県高岡の西光寺をたずねた。このとき碧梧桐は24歳だったが、その後子規の死去を経て、33歳から「三千里」 ...
2022/9/7
富山町(現在の富山市)とその周辺地域は、江戸時代から売薬業が盛んで、日本一の産地だった。売薬商人は、販路拡大のために天保年間頃までには進物商法を始めたとみられ、その最初の進物は、名所絵や役者絵を印刷し ...
2022/9/5
結城正明(1834-1904)は、越中国富山柳町(現在の富山市柳町)で金沢藩士の子として生まれ、19歳で江戸に出て木挽町狩野家の狩野勝川院雅信に入門した。同門には狩野芳崖、橋本雅邦、木村立嶽らがいた。 ...
2022/9/12
木村立嶽(1825-1890)は、越中国中新川郡富山南田丁(現在の富山市南田町)に生まれた。父親は仏壇の指物師・宮大工を生業にしていた。6歳頃から藩絵師に画技の手ほどきを受け、12歳頃に第10代富山藩 ...
2022/8/23
稲垣碧峰(1813-1879)は、富山城下舟橋今町(現在の富山市)の造り酒屋に生まれ、京都に上り貫名海屋に書を、浦上春琴に画を学んだ。当時、田能村竹田に有能な弟子を訪ねられた春琴は、将来大成して新機軸 ...
2022/8/4
谷口藹山(1816-1899)は、越中国新川郡鉾ノ木村(現在の立山町)の農家に生まれ、幼いころ富山町の分家に養子に出た。18歳の時に江戸に出て谷文晁の門に入り、文晁とその門下の高久靄厓に師事した。26 ...
2022/8/1
吉田公均(1804-1876)は、越中江上村(現在の富山県中新川郡上市町)の農家に生まれた。幼いころから画才を発揮し、それを認めた近所の住職の勧めで、12歳の時に京都に出て絵画の修行をはじめた。 はじ ...
2022/7/28
山下守胤(1786-1869)は、富山城下平吹町の富山藩御用の染物紺屋の山下屋に生まれた。幼いころから画を好み、家業を継がずに森探玉斎について画を学び、のちに江戸に出て狩野派の画法を学んだ。帰郷後、1 ...
2024/12/11
岸駒を祖とする岸派は、岸駒没後は、二代目・岸岱、同時代に活躍した岸良、三代目・岸連山へと受け継がれた。流派としての岸派は、四代目の岸竹堂か連山の子・岸九岳で途絶えたとされるが、岸派の流れを汲む画家たち ...
2024/12/11
岸派の祖・岸駒の生い立ちに関しては不明な点が多く、生地については富山説と金沢説がある。家伝では岸駒の父親は、加賀前田家の支藩である越中富山藩を退官して金沢に移ったとされ、岸駒は金沢において出生したとあ ...
2022/7/6
星襄一(1913-1979)は、新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)に生まれた。星家は、襄一の少年時代に東京で孔版業を営んでいたが、大正12年の関東大震災で被災して帰郷した。襄一は、17歳で六日町中学 ...
2022/7/4
末松正樹(1908-1997)は、新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)に生まれた。父親の転職に伴い各地を転々とし、新潟中学、宮崎中学などを経て山口高等学校文科に学んだ。22歳の時に一家で新発田に戻 ...