魚屋北渓(1780-1850)totoya-hokkei
はじめ狩野養川院惟信に学び、のちに葛飾北斎の門に入った。四谷の鮫ケ橋で、松平志摩守御用達の魚屋を営んでいたため、「魚屋」を号とした。挿絵、肉筆画、摺物、錦絵と幅広いジャンルを手がけたが、なかでも狂歌絵本の挿絵と狂歌摺物は重要な分野で、挿絵の量は北斎を凌駕するともいわれる。
関連記事:八戸に俳画を広めた浮世絵師・魚屋北渓
はじめ狩野養川院惟信に学び、のちに葛飾北斎の門に入った。四谷の鮫ケ橋で、松平志摩守御用達の魚屋を営んでいたため、「魚屋」を号とした。挿絵、肉筆画、摺物、錦絵と幅広いジャンルを手がけたが、なかでも狂歌絵本の挿絵と狂歌摺物は重要な分野で、挿絵の量は北斎を凌駕するともいわれる。
関連記事:八戸に俳画を広めた浮世絵師・魚屋北渓