文晁に次いで、さらに遠江と深い関係にあったのが渡辺崋山である。崋山門下として椿椿山と並んで双璧といわれた福田半香、さらに平井顕斎が出るにいたって、遠江の南画は全盛を迎えた。半香、顕斎の門下からは、小栗松靄、熊谷青城、藤田松湖、中村生海ら、椿山の門下からは、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘らが出て、さらに渡辺小華門下へと続いていく。父子三代の円山派を結実させた山田蘆岸や、まったくの野の画人である伊藤煙垌、土の仏画家・伊東蘆水ら異色の南画家が続々と現れたのも、遠江南画の全盛を物語っている。
渡辺崋山(1793-1841)わたなべ・かざん
寛政5年江戸生まれ。田原藩士の子。名は定静、のちに登。字は子安。初号は華山、のちに崋山と改号した。別号に全楽堂、萬画斎などがある。8歳から藩の世子御伽役をつとめ、藩士としては天保3年に40歳で年寄役となった。13歳の時に鷹見星皐に入門し、のちに佐藤一斎に師事した。画は金子金陵、谷文晁に学んだ。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎らがいる。蘭学にも精通したが、天保10年、47歳の時に蛮社の獄によって捕らえられ、翌年田原に蟄居となったが、門人たちが開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
山田蘆岸(1801-1860)やまだ・ろがん
享和元年10月23日生まれ。山田鉄支の養子、山田家十二代。名は重武、字は寛夫。はじめの名は昭宜、字は之玉、幼名は孫吉。別号に逢雪斎、松濤舎、無為楽老人などがある。蘆岸は山田の分家孫次郎の長男で、和歌、俳諧、茶技をたしなみ、彫刻も巧みで、画は円山派の長沢蘆洲に学んだ。養父鉄支も同派と交渉があり、山田氏三代の画技は蘆岸によって結実したといわれる。万延元年3月25日、60歳で死去した。
伊藤煙垌(1784-1857)いとう・えんけい
天明4年生まれ。蒲村植松の人。通称は春蔵。師ははっきりとしないが、黄檗楚州と親しく、楚州が大雄庵の住職をしていた頃に詩を収録した『舘山吟草』の「前遊」「後遊」それぞれに挿画が6点ずつ掲載されている。毎日釣りばかりしていて、楚州の出遊の際には寄り添って出掛けたという。蒲村の俳人・徐生とも親しく、この両者との合作が多い。安政4年10月23日、74歳で死去した。
伊東蘆水(不明-不明)いとう・ろすい
浜名郡和田村篠ケ瀬生まれ。生没年不明だが文化文政頃の人。旧姓は鈴木で浜松伝馬町の養子となって伊東姓となった。通称は茂兵衛。はじめ偽峯と号し、次に光山と改めた。別号に弧月窓がある。尾張藩光林斎の門人といわれる。作品の大部分は仏画で、当時の東海道における有数の仏画家として伝えられており、特に金泥は牢固で、葛飾北斎に従って名古屋に行きその盛上法を習得したとされ、「蘆水の金泥はかじっても落ちない」といわれた。
渥美節斎(1790-1850)あつみ・せっさい
寛政2年磐田郡光明村船明の豪家に生まれた。家は代々同所の諏訪明神の神官を勤め、御榑木役所の勤務も兼ねており、節斎は渥美家十二代。名は正載、字は大車、通称は林五左衛門。幼名は八十二、または尊敬蔵。書をよくし、画を描き、詩を作り、歌を詠み、篆刻をし、易学を修め、医学にも詳しく、弓道もするなど多芸多能で、号はだいたい詩文には大車、書には林五左衛門または節斎、画には斎または節斎、和歌には正載などと号を使い分けていた。当時は豊田郡きっての書家ともいわれ、「字の書き手は林五左衛門(節斎)、画かきは福田半香、口ききは河島の近江」と称された。福田半香とは親戚の間柄で、半香はよく渥美家に逗留しており、半香の初期の盤湖落款のもので、節斎との合作が渥美家には多く残っている。嘉永3年2月3日、61歳で死去した。
水野真邦(1785-1862)みずの・まくに
天明5年8月16日小笠郡佐倉村佐倉に生まれた。父・豊麿は池宮神社の神官。通称は貢で真邦は諱、真国とも書く。池有亭、または内膳と号し、画名には梅下山人の号もある。父子二代栗田土満の門に入って国学和歌を学んだ。のちに伊勢松阪に行き、本居宣長の子春庭に従って国学和歌を研究、また本居大平にも従学した。書画を好み、画は伊勢の僧月僊に学んだ。文久2年7月23日、78歳で死去した。
板倉呂仙(1800-1858)いたくら・ろせん
寛政12年磐田郡掛塚港生まれ。のちに榛原郡相良の板倉家の養子となった。通称は市兵衛門。安政5年2月4日、59歳で死去した。
遠州(3)-画人伝・INDEX
文献:遠州画人伝