江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写生を基調とした近代的風景画を追究した野村文挙

野村文挙「芳野春暁図」滋賀県立美術館蔵

野村文挙(1854-1911)は、近江商人の子として京都に生まれた。14歳の時に浮世絵師・梅川東挙の門に入ったが、2年後に師の東挙が没したため四条派の塩川文麟に師事し、2人の師から1字ずつもらい「文挙」と号した。

文挙の青年期である幕末から維新にかけては、円山四条派の写生画よりも幕末の志士たちも手掛けた南画が人気を得ており、写生を基調とする風景画を生業と考えていた文挙はスランプに陥り、しばらく京都を離れ、父の郷里・神崎郡北庄(現在の滋賀県東近江市)の祖父八郎兵衛のもとに身を寄せ、数年間を湖東で過ごした。

明治も10年を過ぎると世情も落ち着き、次第に写生画も見直されるようになった。そんな写生画復興の機運のもと、文挙も再び京都に戻り、内国勧業博覧会や内国絵画共進会で実績を重ね、明治13年に開校した京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)で教鞭をとるなど、京都画壇での地位を固めていった。しかしその後、活動の場を東京に移すことになる。

文挙が東京に移った時期は定かではないが、明治20年頃と思われる。それ以前に、円山四条派の総仕上げとの考えからなのか、円山派の重鎮・森寛斎にしばらくの間師事したとみられる。文挙が東京に出た理由も定かではないが、おそらく日本画壇の中心は京都から東京に移るだろうと文挙は考えていたと思われる。

東京に出た文挙は、明治22年に学習院の絵画教師となり、美術教育にたずさわる一方で、日本美術協会を中心に活動した。各種展覧会にも精力的に出品し、円山四条派の写生画を基調にした近代的描写を加味した風景画を追究し、内国勧業博覧会や日本絵画共進会をはじめ、海外展でも受賞を重ねた。

明治40年に創設された文部省美術展覧会(文展)では第1回展で3等を受賞し、第2回展からは審査委員もつとめた。明治43年には日英博覧会で1等賞金牌を受け、その後の活躍も期待されたが、翌年の1月、58歳で急逝した。

野村文挙(1854-1911)のむら・ぶんきょ
安政元年京都長刀鉾町生まれ。神崎郡北庄(現在の滋賀県東近江市)の野村宇三郎の長男。幼名は松太郎、字は子融。別号に石泉、福吉翁などがある。はじめ浮世絵師・梅川東挙に学び、その後塩川文麟、森寛斎に師事した。明治10年京都府博覧会及び第1回内国勧業博覧会で褒状を受け、明治13年開校した京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)で教鞭をとった。明治14年第2回内国勧業博覧会で妙技3等を受賞、明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞を受賞。明治20年頃東京に出て、明治22年から学習院の教授をつとめた。明治22年第1回日本美術協会展で銅賞を受賞、その後も同展で受賞を重ねた。明治33年パリ万国博覧会で銅牌。同年台湾総督府の委嘱を受けた。明治36年米国のセントルイス万国博覧会で銅牌。同年第5回内国勧業博覧会で2等。明治40年第1回文展で3等を受賞、第2回展から審査委員をつとめた。明治43年日英博覧会で1等賞金牌を受けた。門人に山元春挙がいる。明治44年、58歳で死去した。

滋賀(25)-画人伝・INDEX

文献:近江の画人、近江の画人たち