江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

終生彦根で活動した四条派の大橋文岱

大橋文岱「楼閣山水人物図」

大橋文岱(1846-1937)は、はじめ彦根の狩野素雪について学び、のちに京都に出て四条派の内海元紀、塩川文麟に学んだ。文麟のもとでは仕事にも恵まれ、御所の仕事もつとめていたが、34歳で独立して彦根に戻り、地元の寺院や富裕層の邸宅の障壁画を手掛けるなど終生彦根で活動した。

また、同じ文麟門下の北垣公麟(1834-1922)は、但馬に生まれ、京都に出て塩川文麟の門に入った。明治31年に近江八幡市内に移住し、日牟禮八幡宮能舞台の老松図をはじめ、近江に多くの作品を残している。

公麟の二男・巳之助は、父に画を学び、その後大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)で教職に就いた。同校での教え子に小倉遊亀がいる。

大橋文岱(1846-1937)おおはし・ぶんたい
弘化3年生まれ。彦根の狩野素雪に学んだ後、京都で内海元紀、塩川文麟に師事した。34歳で帰郷し終生彦根で活動した。全国主要都市で開催された博覧会や展覧会で多数入賞し、天皇や井伊家買い上げにもなった。彦根市の教善寺本堂障壁画や、愛荘町などにも作品が残っている。昭和12年、91歳で死去した。

北垣公麟(1834-1922)きたがき・こうりん
天保5年但馬国養父郡(現在の兵庫県養父郡)生まれ。12歳で京都に出て田中日華に師事した。日華没後は岸派に学び、嘉永元年、24歳の時に塩川文麟の門に入った。文麟の助筆となり、蔵人御所画領、雅楽と号し、京都の柳馬場五柳庵に住んだ。明治31年近江八幡市に移住した。大正8年、88歳で死去した。

滋賀(24)-画人伝・INDEX

文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人

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