江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張の復古大和絵派、森高雅の門人たち

尾張において渡辺清とともに土佐派を広めたのが森高雅(1791-1864)である。高雅ははじめ吉川一渓に狩野派を、ついで中林竹洞に南画を学び、さらに歌麿・北斎に師事した牧墨僊について浮世絵、美人画を修め、「玉僊」の雅号で浮世絵師として名声をあげた。しかし、晩年になると土佐光貞の門に入り、土佐の遺風を慕い、有識故実の学を極め、大和絵を加味した風俗画を描いた。

残された作品も多彩で、尾張名所団扇絵を描いたり、肉筆美人画を描くなど、浮世絵系の墨僊の弟子としての側面を見せる一方で、典雅な色彩の大和絵を描き、南画風の作品も残した。日比野白圭、木村金秋、鬼頭道恭ら土佐派を継承した門人も多い。

鬼頭道恭(1840-1904)きとう・どうきょう
天保11年2月生まれ。名は道恭、通称は玉三郎。名古屋本町の平八の子。森高雅に学び、のちに京都に出て、巨勢派の北村季隆に仏画を学び、かたわら岡田為恭について土佐派を修めた。甲斐身延山六角堂内部の装飾に従事した。のちに名古屋に帰り門人を育てた、仏画が得意で、その第一人者と称された。明治37年4月、65歳で死去した。

児島基隆(1819-1887)こじま・きりゅう
文政2年生まれ。名は吉隆。幼い頃から画を好み、はじめ森高雅に学び、のちに浮田一蕙の門に入り、田中訥言を慕った。和歌を好み、勤王の士と交わった。明治15年の内国絵画共進会で受賞、同18年に愛知県絵画共進会の審査員となる。稲武町の古橋懐古館に大作が残っている。明治20年7月28日、69歳で死去した。

太田仙草(1838-1891)おおた・せんそう
天保9年春日井郡下小田井村生まれ。青物問屋を営む。太田三郎の父。森高雅に土佐派を学んだ。日比野白圭、木村金秋、鬼頭道恭らと愛知同好会を組織して中京画壇で活躍した。明治24年、54歳で死去した。

時田光稲(1837-1877)ときた・こうとう
天保7年生まれ。名は光稲、字は寛卿、通称は金右衛門。別号に流翠、松蔭斎がある。名古屋大船町の商家。森高雅に学び、のちに土佐光文に師事して土佐派の絵を描いた。また、流翠の号で俳諧をよくした。明治10年4月14日、42歳で死去した。

丹羽閑斎(1810-1880)にわ・かんさい
文化7年名古屋長塀町生まれ。字は氏常、通称は左一郎。尾張藩士。画を森高雅に学ぶ。妻は高木雪居の娘。明治13年1月20日、71歳で死去した。

古川玉応(1807-1886)ふるかわ・ぎょくおう
文化4年6月3日生まれ。愛知郡高畑村八幡社の祠官・古川観太郎の子。13歳の時に玉僊時代の森高雅に浮世絵を学び、高雅の画風の変化にともない土佐派風の画を描いた。明治19年、80歳で死去した。

成田松園(1813-不明)なりた・しょうえん
文化10年5月生まれ。通称は松三郎。別号に玉竜、素竜がある。森高雅について土佐派を学び、仏画を吉川一渓に学んだ。明治初年頃死去。

石川不成(1833-1901)いしかわ・ふせい
天保4年生まれ。名は信守、通称は吉太郎。尾張藩士。幼いころから画を好み、森高雅について土佐派を学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品している。明治34年、69歳で死去した。

下郷采蘭(1818-1900)しもごう・さいらん
文化15年5月鳴海の下郷家に生まれる。名は禎斎。幼少より小島老鉄について南画を学び、さらに森高雅から有識故実を学んだ。19歳で家督を継ぎ、鳴海宿村の諸役を歴任するからわら画を楽しんだ。明治33年、83歳で死去した。

尾張(12)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史