江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張南画の歳寒三友、竹洞、梅逸、そして伊豆原麻谷

伊豆原麻谷「菊花双禽図」

竹洞、梅逸と並び称され、尾張南画の「歳寒三友」の一人とされた「松谷」こと伊豆原麻谷であるが、その経歴に不明な点は多い。三河の農村に生まれ、僧侶になるはずが画の道に入り、当時最先端だった長崎で修業。京都、大坂、名古屋で絵画を業として生き、同時代の文化人たちと盛んに交流、画家としての名声も高かった。にもかかわらず、現在では竹洞、梅逸ほどの評価が得られておらず、後継者も見当たらない。

伊豆原麻谷(1776-1860)は、安永7年三河国加茂郡北莇生村西山に生まれた。名は彬・迂、字は大迂、通称は橘蔵。莇生(あざぶ)の音を取って「麻谷(まこく)」と号した。10歳で名古屋禅寺町の寺に入り、16歳で京都に出て、20歳で長崎に行き10年間修業し、30歳で京都に戻った。ここですでに京都にいた竹洞、梅逸といわゆる「歳寒三友」の契りを結び、号を「松号」に改めたという。しかし思うような結果が出せず、京都を離れて大坂に行き、そのあと各地を転々とし、文政10年、50歳の時に名古屋に戻り、号を「麻谷」に戻したという。その後は名古屋を拠点として活動、万延元年、83歳で死去した。

経歴不明の中でも特に師系が定かでない。10歳で入った寺で師僧が画才を見抜き、就かせたという画家の名が伝わっていない。16歳からの京都での修行も史料が少なく師系は推論の域を出ない。さらに、長崎では方西園及び費晴湖について学んだとされるが、否定的な見解を持つ研究者もいる。また、改号に関しても、京都に出て「松谷」と改めたとされるが、現在に至るまで「松谷」と号した作品が確認されておらず、確証があるわけではないが否定するだけの確証もない、というのが現状である。

麻谷の人物像について、図録『伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~』(三好町立歴史民俗資料館)では、交流のあった南合果堂貫名海屋、村瀬藤城、村瀬秋水高橋杏村、吉原仲恭らが記載している書物などから判断して、「素朴で飾らない人物であり、無口で、将来のことを考えて三味線を習うような一面を持つ、一種奇人でありながら、皆に愛される好人物であった」とし、画家としての評価は、「画は気韻を尊び、古淡であり、名古屋の画工として成功していたことは、その名声の高さ、注文の多さ、そして貯えのあったことなどから伺える」としている。

謎に包まれながらも画家として名声が得て、行動範囲も広く、各地の知識人たちと盛んに交流した好人物と評される麻谷だが、分かっている弟子も少なく、麻谷の作風を忠実に、あるいは発展させて受け継いだものを見出すことはできない。

牧野錬石(不明-1885)まきの・れんせき
美濃長良の生まれ。はじめ伊豆原麻谷につき南宗の画法を学び、のちに山本梅逸の養子となったが、素行が修まらなかったので離縁となった。明治18年7月8日死去。

林稼亭(1824-1905)はやし・かてい
文政7年2月生まれ。通称は源助。海部郡蟹江の林源左衛門の子。はじめ伊豆原麻谷の門に入り南宗の画法を学び、ついで小島老鉄、村瀬秋水の教えを受けた。半生は西三河地方を巡遊したが、晩年は不遇のうちに生涯を終えた。明治28年10月、82歳で死去した。

加藤甘谷(不明-1841)かとう・かんこく
海部郡佐屋の人。名は正利、通称は五左衛門。別号に江南がある。師承は明らかではないが伊豆原麻谷とみられる。好んで描く山水は、人柄を反映し、非常に生真面目で、厳格なものであったという。天保12年死去。

尾張(10)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史、伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~