江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

耶馬溪の名付け親・頼山陽と豊前中津青村の曽木墨荘

頼山陽「耶馬溪図巻 長巻」(部分)
1829年頼山陽が初めて耶馬溪を訪れて描いた耶馬溪図巻は焼失してしまったため、残っていたデッサンをもとに、その10余年後に改めて描かれたもの。この大作には記文と詩を新たに添えた。その記文が「耶馬溪図巻記」で、のちに山陽の文稿を代表するものとなった。これによって耶馬渓の名は高まり、天下の名勝となった。

田能村竹田が生涯もっとも親しく交遊したのが頼山陽(1781-1832)である。山陽は日本外史を著したことで知られる漢詩人で、大坂で生まれ広島で育ったが、その後、居を京都に定め、多くの文人・画人と交流した。竹田と同郷の雲華上人とも旧知の仲だった。

文政元年、山陽は父春水の法要をすませ、九州遊歴の旅に出た。この遊歴は1年あまりにも及び、旅の終わりに中津の正行寺に友人の雲華上人を訪ね、16日間滞在している。この時に雲華上人は、当時まだ「耶馬溪」の名はない山国渓谷を、奇観、景勝好きの山陽に案内した。山陽は山国渓谷の景観を見て絶賛し、「耶馬溪の風物、天化に冠たり」と、その景観を耶馬溪と名付けた。そしてその景観を描き、雲華上人に贈るが焼失してしまったため、文政12年、残っていたデッサンをもとに8メートルにも及ぶ大作《耶馬溪図巻》を描いた。これが文人の間で評判となり、一躍耶馬溪の名が広まることとなった。

この際、雲華、山陽に道案内をしたのが曽木墨荘(1772-1838)である。墨荘は、小倉藩で村の農政に治績をあげた為政者であり、書画を愛する文人でもあった。耶馬溪の青の洞門で知られる青村の出身で、奇観、景勝の地などに詳しく、《耶馬溪図巻記》にある漢詩文には、墨荘の名前が随所に記されている。『竹田荘師友画録』によると、墨荘は、梅を愛し、うしろの庭に数株を植え、そばに書斎を造り、中に鉢の蘭を置いていた。終始正座して、詩を作り、書画をかき、それに倦きると琴を奏でた。書や画は必ずしも苦心して作らない。書画を作るのは、民を治め政に従わせるやり方と同じで、すべてこれを自然にまかせるという具合だったという。

頼山陽(1781-1832)
安永9年大坂生まれ。父は儒者の頼春水。名は襄、字は子賛、のちに子成。通称は久太郎、にちに徳太郎、さらに久太郎に戻した。別号に三十六峰外史がある。その居を水西荘、山紫水明処、三面梅花処と名付けた。父・春水が広島藩儒に登用されたため広島に移住し、7歳から叔父・杏坪に学び、寛政9年に杏坪が藩命で江戸に赴く時も従った。江戸では尾藤二洲、服部栗斎に学び、翌年広島に戻った。寛政12年脱藩して京都に逃げるが連れ戻され自宅に幽閉された。享和3年に幽閉が解かれ、頼家を廃嫡された。その後菅茶山の廉塾の塾頭となるが、ここを逃亡、京都に戻って私塾を開き、文人グループの中心的人物として多くの文人・画人と交遊した。著書に『日本外史』などがある。天保3年、53歳で死去した。

曽木墨荘(1772-1838)
安永元年下毛郡曽木村生まれ。家は代々の大庄屋。曽木円助の長男。幼いころから学問を好み家業を継がず、医学を志し、漢学も学んだ。豊後中津藩の儒者・野本雪巌、杵築の三浦梅園らに学んだ。その後、熊本に遊学して高本紫溟に漢学や漢詩、画を学び、村井琴山について医学を学んだ。この頃、田能村竹田と親交を深めた。頼山陽、田能村竹田、恒遠醒窓、松川北渚、また中津藩で甲州流兵学や山片流馬術の師範をつとめた八條半坡、そして末広雲華上人などと交遊した。梅や蘭を愛し、盆栽蘭を作り、それを描いた。天保9年、67歳で死去した。

大分(12)-画人伝・INDEX

文献:没後百五十年頼山陽展図録、「海路」頼山陽・田能村竹田らと交流した多能な才人 手永大庄屋 曽木墨荘の生涯

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