江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

田能村竹田と豊後杵築ゆかりの儒者・篠崎小竹

田能村竹田「梅花宿鳥図」大分県立美術館蔵
竹田が深山桜と名付けた大坂の寓居で描かれたもので、右上にある落記には親友の頼山陽と篠崎小竹の着語を待つと記されている。その言葉どおりに篠崎小竹は左上に詩を書いているが、頼山陽のほうは実現せず、代わりに山陽の弟子である後藤松陰が右下に詩を書いている。

篠崎小竹(1781-1851)は、近世後期の大坂を代表する文人で、漢詩、漢文に優れ、書家としても高名である。父親が豊後杵築の出身ということもあり、田能村竹田とは京坂の文人グループで親しく交遊し、よく遊歴に同行している。小竹は、竹田の生涯の友である頼山陽(1781-1832)とも親しく、小竹と頼山陽が、それぞれ18歳と19歳の時に大坂で知り合って以来親しく交遊し、山陽が菅茶山の廉塾から逃げ出して来た時も、小竹の大坂の家に身を寄せている。

『杵築の書画人名鑑』によると、若いころ杵築に帰って生家に住んだ小竹は、故郷を愛し、大坂を訪れた杵築人の世話をよくし、杵築藩主教育係となった小川含章も小竹が世話をした学者だったという。

小竹の父・加藤周貞の出身地である豊後杵築は、代々の藩主が学問を奨励していたため、文教の地として名高く、豊後三賢の一人である三浦梅園をはじめ、その子・三浦黄鶴、麻田剛立、石川遠明ら多くの優れた学者を輩出している。

篠崎小竹(1781-1851)
天明元年生まれ。幼名は金吾、名は弼、字は承弼、通称は長左衛門。別号に南豊、了橋、棠陰、退庵、異堂、紅相居主人などがある。父親の加藤周貞は、若くして医学を修め、のちに大坂に移って開業した。小竹は9歳の時に大坂の儒者・篠崎三島について学び、才能を認められて13歳で養子となった。寛政11年江戸に遊学に出たが、養母が没したため帰郷。同年から父に代わって阿波の藩老稲田家に出講釈をし、以後毎年行った。享和3年、23歳の時に九州、四国を遊歴、文化5年には再び江戸に出て昌平坂の学問所で古賀精里に学んだが、同年父三島が病んだため、梅花社を継いだ。嘉永4年、72歳で死去した。

大分(11)-画人伝・INDEX

文献:杵築の書画人名鑑、陶説5月号「青木木米の交流(7)篠崎小竹」、大分県立芸術会館所蔵名品図録

  • B!

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...