昭和11年、二科会を退会した石井柏亭、有島生馬、安井曾太郎、山下新太郎、藤川勇造の5名に、硲伊之助、小山敬三、木下孝則、木下義謙が加わり、一水会が創立され、のちに安宅乕雄、田崎廣助、中村善策、須山計一、高橋貞一郎らが加わった。
創立会員のひとりである小山敬三(1897-1987)は、北佐久郡小諸町(現在の小諸市)の醸造業を営む旧家に生まれ、幼いころから父が傾倒していた富岡鉄斎の墨蹟に接し、画家を志すようになったが、父の反対にあい、上田中学校(現在の上田高等学校)卒業後は上京して慶應義塾大学理財科予科に進んだ。
しかし、画家への思いは断ちがたく、大学を中退して川端画学校に通い藤島武二に学び、また、小諸義塾教師時代から小山家と交流のあった島崎藤村の助言と激励を受けて23歳の時に渡仏、アカデミー・コラロッシに通いシャルル・ゲランに師事し、サロン・ドートンヌに出品を続け会員となった。
滞仏中から春陽会の客員に迎えられ、31歳で帰国してからもしばらく出品していたが、その後二科会に転じて会員となった。しかし、昭和11年に退会して一水会の創立に参加した。昭和19年、小諸御牧ヶ原に疎開して半農半画の生活を送り、昭和20年の全信州美術展創立の際には石井柏亭らとともに尽力した。戦後は日展の要職をつとめ、昭和50年に文化勲章を受章した。
ほかに一水会に出品した信州ゆかりの明治生まれの画家としては、戦時中に信州に疎開し、信州美術会、中信美術会の結成に参加した中村善策(1901-1983)、フランスから帰国後、一水会に出品した滝川太郎(1903-1970)、プロレタリア美術活動の後、油彩画に専念して一水会に出品した須山計一(1905-1975)、教員のかたわら一水会に出品した小平鼎(1905-1975)、鳥羽宗雄(1906-1990)、荻原孝一(1909-1979)らがいる。
小山敬三(1897-1987)こやま・けいぞう
明治30年北佐久郡小諸町(現在の小諸市)生まれ。慶應義塾大学予科を中退し、大正5年川端画学校で藤島武二に師事した。また、有島生馬、安井曾太郎にも指導を受け、日本美術院でも学んだ。大正7年二科展、再興院展に初入選。大正9年渡仏。アカデミー・コラロッシに通い、シャルル・ゲランに師事した。サロン・ドートンヌの会員となり、留学中の大正13年に春陽会会員となった。昭和3年帰国。春陽会を脱退して二科会会員となったが、昭和11年退会し、石井柏亭らと一水会を結成した。戦後は日展の要職をつとめ、昭和34年日本芸術院賞。昭和35年日本芸術院会員。昭和45年文化功労者。昭和50年には文化勲章を受章した。昭和62年、89歳で死去した。
中村善策(1901-1983)なかむら・ぜんさく
明治34年北海道小樽市生まれ。本名は善作。小樽実業補習学校に学んだのち、大正5年西谷海運に入社。働きながら小樽洋画研究所に通い、大正13年に上京して川端画学校に学んだ。大正14年第12回二科展に初入選し、以後昭和11年まで同展に出品したが、昭和12年第1回一水会展に出品し会員に推挙された。以後、一水会展、帝展、日展に出品。昭和20年に東筑摩郡明科町(現在の安曇野市明科)に疎開し、昭和25年まで滞在した。この間、信州美術会、中信美術会の結成に参加した。昭和42年第10回日展で文部大臣賞受賞、昭和43年日本芸術院賞を受賞した。昭和58年、81歳で死去した。
滝川太郎(1903-1970)たきがわ・たろう
明治36年松本市天神生まれ。大正5年両親を相次いで亡くしたため、開智学校を卒業後はそば屋「弁天」で住み込みで働いた。大正9年頃画家を志して上京。新聞配達をしながら太平洋画会研究所に通い、石井柏亭宅の書生となり、文化学院の図書室でも働いた。昭和2年二科展に初入選し、以後昭和5年まで連続で入選した。昭和6年渡仏。日本レストランなどで働きながら名画の模写をして学び、昭和8年にはジュネーブの国連総会に出席した日本政府代表団の世話人もつとめた。約10年間フランスに滞在し、昭和15年に帰国。その後は一水会展に出品を続け、昭和18年第7回一水会展で岩倉具方賞を受賞。昭和21年に会員となった。戦時中は松本市に疎開し、昭和20年の第1回全信州美術展にも出品した。ヨーロッパ名画の贋作者としても知られる。昭和45年、67歳で死去した。
須山計一(1905-1975)すやま・けいいち
明治38年下伊那郡鼎村(現在の飯田市鼎)生まれ。県立飯田中学校を出て東京美術学校西洋画科に進み、藤島武二に師事した。昭和2年、松山文雄の誘いで麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画家連盟に参加。次第にプロレタリア漫画に重点を移し、日本プロレタリア芸術連盟に加盟、宇野計の名前でプロレタリア美術展に出品した。昭和4年、プロレタリア美術家同盟の結成に参加し、昭和8年書記長となり、同年12月に治安維持法違反容疑で検挙され約1年間拘置された。昭和16年から本格的に油彩画に取り組むようになり同年一水会展に初入選、昭和21年会員となった。昭和20年第1回全信州美術展に出品。昭和22年日本美術会会員。昭和34年草炎社結成。昭和46年から再び一水会展に出品し、翌年会員となった。昭和50年、69歳で死去した。
小平鼎(1905-1975)こだいら・かなえ
明治38年諏訪郡湖東村(現在の茅野市)生まれ。諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)を卒業して上京、文化学院美術科に入学し、石井柏亭に師事した。昭和4年二科展に初入選し、以後6回連続して入選した。昭和12年からは一水会展に出品し、昭和15年同展で岩倉具方賞を受賞。この頃帰郷し、県立大町中学校、松本中学校などで教鞭につくかたわら、一水会展などに出品した。昭和19年退職。昭和20年第1回全信州美術展に出品。昭和21年一水会会員。同年の信州美術会の創立に尽力した。昭和35年から1年間滞欧。昭和50年、70歳で死去した。
鳥羽宗雄(1906-1990)とば・むねお
明治39年東筑摩郡本郷村(現在の松本市横田)生まれ。教員だった父の転勤に伴い長野県内をまわり、上田中学校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事した。在学中の昭和3年第9回帝展に初入選。昭和8年の同校卒業後は、横浜市の神奈川県立一中の教師となった。光風会に出品していたが、昭和11年の新制作派協会設立に参加。この頃2度に渡って満州、中国大陸を旅行した。昭和15年神津港人らが設立した緑巷会に移ったが、作風があわなかったため脱退し、昭和18年同志と新油絵協会を設立、東京府美術館で公募展を4回開催したが、戦争激化のため解散した。昭和19年帰郷し、戦後は県立松本高等女学校の教師となった。浅間温泉に疎開していた石井柏亭の勧めで昭和22年から一水会に出品し、昭和43年会員となった。長野県展にも出品した。平成2年、84歳で死去した。
荻原孝一(1909-1979)おぎわら・こういち
明治42年南佐久郡野沢町(現在の佐久市)生まれ。県立野沢中学(現在の野沢北高校)を卒業後上京し、川端画学校に学び、昭和4年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事した。昭和9年の同校卒業後は、漆工芸研究所の図案部長をつとめ、昭和11年に結成された新図画協会の講師として全国各地をまわった。昭和13年に母校の野沢中学校の美術教師となり、一時兵庫県立姫路高等女学校に転任したが、昭和20年再び野沢中学校に戻った。神津港人主宰の緑巷会に参加、昭和23年日展に初入選、長野県展には第1回展から出品した。緑巷会が第一美術協会と合併した際に退会し、昭和26年から一水会に出品、昭和29年会員となった。昭和54年、70歳で死去した。
長野(64)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻、長野県美術全集 第7巻、長野県美術全集 第8巻、松本の美術 十三人集、飯田の美術 十人集、郷土美術全集(飯田・下伊那)〔後編〕、信州諏訪の美術(絵画編)、信州の美術、松本平の近代美術、信州近代版画の歩み展、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語