江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

増山雪斎と桑名の画人

増山雪斎 左:黄葵に翡翠図、右:牡丹に孔雀図

桑名の画人としては、沈南蘋風の花鳥や水墨を描き、文人大名と呼ばれた伊勢長島藩主・増山雪斎(1754-1819)が知られている。雪斎は文雅を好み、十時梅厓(1749-1804)や春木南湖(1759-1839)を招き、伊勢長島の文化の振興に尽くした。また、多くの文化人と交流し、木村兼葭堂(1736-1802)が過醸罪に問われた際には長島藩領の川尻村に隠棲させ庇護した。晩年は巣鴨の下屋敷で自適の生活を過ごし、虫類の精密な写生画である「虫豸帖」(東京国立博物館蔵)を残した。桑名には他に、雪斎の子である雪園、真宗高田派の住職・帆山花乃舎らをはじめ、桑名に移り住んだ星野文良らがいる。

増山雪園(1785-1842)ましやま・せつえん
天明5年生まれ。増山雪斎の長男。父の影響を受けて自らも筆をとり、書画などを残している。また、漢詩もよくし、菊池五山の『五山堂詩話』にも、巻七、補遺一と二度にわたり計7作が掲載されている。天保13年死去。

星野文良(1798-1846)ほしの・ぶんりょう→参考:福島08
寛政10年奥州白河生まれ。名は文輔。楽翁公に仕え、主家移封ののちに桑名に住んだ。公の命によって谷文晁の門で学んだ。巨野泉祐の兄弟子。弘化3年、49歳で死去した。

帆山花乃舎(1823-1894)ほやま・はなのや
文政6年桑名町生まれ。名は唯念。真宗高田派の崇寺の住職。幼い頃から画を好み、渡辺周渓に学び、のちに浮田一蕙に学んで土佐派を修め、これを固く守り決して私意を挟まず、人物花鳥、山水を描いた。安政年間に画院に入り、藤原信實、土佐光信らの古法を研究し、画所に招聘されて、師の一蕙とともに土佐光文を補佐して、聖賢御障子の画に従事した。明治27年、72歳で死去した。

南合果堂(1798-1863)なんごう・かどう
寛政11年陸奥白川城内北小路に生まれ、のちに桑名町に移り住んだ。名は龍橘。南合蘭室の三男。幼い頃から文才を認められ、朱子学を志した。藩校の教授をつとめ、仙台藩士・大槻磐渓、会津藩士・山内香雪、熊本藩士・白木柏軒、幕臣・羽倉簡堂らと主に交友した。画を好み、谷文晁の門人である根本愚洲について画を学び、特に山水を得意とした。文久3年、65歳で死去した。

大塚南窓(不明-不明)おおつか・なんそう
享和以前の人。名は龍雄、別号に桑海がある。桑名船馬町の荷問屋・大塚松兵衛の家に生まれた。画をよくし、美濃国に客居して同地に門人が多いと伝えられている。

栗本柳崖(不明-不明)くりもと・りゅうがい
桑名の人。藩の分領・越後柏崎陣屋詰めの会計吏となった。画をよくし、特に山水を得意とした。

三重(5)画人伝・INDEX

文献:増山雪斎~大名の美意識~三重県の画人伝