江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

讃岐に生まれ岡山南画の草分けとなった黒田綾山

高松に生まれた黒田綾山(1755-1814)は、池大雅門下の福原五岳に学び、師の五岳同様に人物画を得意とし、明画、とりわけ美人画の名手とされる銭貢に私淑し、主題、構図、筆法、彩色法などを学んだ。五岳のもとを離れてからは諸国遊歴の旅に出て、天明2年頃から備中玉島(現在の倉敷市)周辺で作画活動を始め、同5年からは玉島に定住、一時期、大坂に出たことはあるが、約30年間を当地で過ごした。画業のほかに、詩、書、陶などの余技もよくし、赤松滄洲、西山拙斎、菅茶山、頼春水ら多くの文化人たちと交流した。また、近隣の文人、知識層だけでなく庶民とも隔たりなく交流し、多くの逸話が残っている。

残された作品に大作は比較的少ないが、これは玉島での綾山の活動が、画業に専心したものではなく、より文人的な色合いが強いものだったからと思われる。綾山の功績は、多くの門弟を育てたことにあり、岡山南画の草分けとして南画普及に大きな役割を果たした。岡本豊彦白神皥々小野雲鵬らの最初の師であり、他にも岡本綾江、守屋中岳らが門下から出ている。門弟たちを自分の元にとどまらせず、積極的に中央画壇へと進出させたことが、岡山南画の発展に大きく寄与したといえる。

讃岐の門人としては宮本綾浦が『讃岐画家人物誌』に掲載されている。

黒田綾山(1755-1814)くろだ・りょうざん
宝暦5年高松生まれ。名は良、字は亮輔、忠良。別号に起雲、南海山人、石隠、雲翁などがある。「綾山」の号は高松の西方にある「綾の松山」という山の名に由来するが、家族関係などは不明である。備後尾道出身の福原五岳に学んだ。入門時期は不確かだが20歳をすぎて間もなくだと思われる。はじめ伊予の狩野派・加藤文麗に学んだという説もあるが不確かである。備中玉島に定住し、多くの門人を育て、岡山南画の普及に貢献した。画域は広いが、とくに人物画を得意とした。文化11年、60歳で死去した。
→関連:岡山に南画を伝えた讃岐の黒田綾山と肥前の釧雲泉

宮本綾浦(不明-不明)みやもと・りょうほ
天保年間の綾歌郡川津村の人。通称は直一郎。画を黒田綾山に学んだ。

香川(4)画人伝・INDEX

文献:岡山ゆかりの画人たち-桃山から幕末まで-、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、讃岐画家人物誌