水越松南(1888-1985)は、姫路藩の漢学者の子として神戸に生まれ、第一神戸中学校を中退して京都に出て谷口 香嶠(参考)に師事し、その後京都市立美術工芸学校図案科に入学した。明治43年の同校卒業後は、その前年に開校した京都市立絵画専門学校に入学し、山元春挙、竹内栖鳳(参考)に学んだ。同期に山下摩起、森谷南人子がいた。
在学中に文展初入選を果たしたが、卒業後は南画に傾倒して富岡鉄斎(参考)に私淑し、大正10年に京都で創立された日本南画院の第1回展に出品し、大正12年には同人となり、同院が解散する昭和11年の第15回展まで毎回出品を続けた。また、大正末から画塾「日本南画松聲会」を主宰し、南画の普及と後進の育成につとめた。
日本南画院展に出品した作品は、飄逸にしてモダンな画風で異彩を放ち、国内外の芸術家・文筆家に賞賛されている。昭和6年の第10回日本南画院展に出品した「化粧」(掲載作品)については、偶然来日していたフランスの作家アンドレ・マルローが賞賛し、次のように書いている。
「彼の芸術は伝統に咲いた不思議な花である。彼の思想は支那や日本の昔を巡礼しているが、彼の感覚は現代の空気と光を自由に呼吸している」「彼の描線は空間を区画しない。それは純粋に主観的な韻律であり、生命としての時の流れである」(兵庫県立美術館所蔵作品選図録より)
さらにその5年後、フランスから来日していた詩人のジャン・コクトーが、堀口大學と一緒に第15回日本南画院展を訪れ、松南の「虎之穴」に注目し、帰国の際に次のような賛辞を堀口に託している。
「伝統的な日本の絵画と新絵画の間に優美な均衡を示してゐる。あなたの虎たちは伝説から生まれてきてゐる。しかし彼らは生命の中に戯れてゐる」(訳:堀口大學)
松風の代表作を多く生み出した日本南画院は第15回展を最後に解散したが、昭和2年の第6回展の出品作である「村之老天使」(掲載作品)を偶然印刷物で目にした小説家の村田喜代子は、著書『偏愛ムラタ美術館【発掘篇】』のなかで次のように語っている。
「郵便配達夫らしい老爺が、頭には日本国の赤い郵便マークの入った笠をかぶり、肩には郵便カバンを掛けて、スタコラ走っている。(中略)その老人を、村の老天使、と呼んでいる。昭和二年に天使なんて呼び方をするとは洒落ている。それだけでも普通の南画とは違っている」とし、さらに「二番目、三番目の人知れず偉大なる『老天使』を見つけ出して、描いてほしかった」とも付け加えている。
松風は、日本南画院解散後、他の美術団体に属することなく、自身の主宰する日本南画松聲会を中心に制作発表を続け、97歳で死去した。
水越松南(1888-1985)みずこし・しょうなん
明治21年神戸市生まれ。本名は達也。父は姫路藩士で漢学者。京都に出て谷口 香嶠に師事した。明治43年京都市立美術工芸学校図案科を卒業、同年第4回文展で初入選。大正2年の京都市立絵画専門学校卒業後は神戸に戻った。大正7年、8年頃から南画に傾倒するようになり、大正10年の日本南画院創立とともに第1回展から出品し、大正12年同人となり出品を続けた。大正11年神戸美術協会の結成に参加。大正末頃画塾「日本南画松聲会」を主宰し、大正15年から毎年塾展を開催。主な塾生に酒井拙庵、角南庭、今井天空、九鬼茶香、水田黄牛、原竹南らがいた。昭和5年の兵庫県美術家連盟の結成に参加。同年小室翠雲に同伴して渡欧して翌年帰国。昭和16年小室翠雲らによる大東南宗院の結成に参加。戦後は団体に属さず無所属で活動した。昭和60年、97歳で死去した。
兵庫(37)-画人伝・INDEX
文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、水越松南展没後20年、兵庫県立美術館所蔵作品選、兵庫の絵画100年展、偏愛ムラタ美術館【発掘篇】