江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

萩藩儒者・佐々木縮往と萩の初期画人

萩藩の儒者・佐々木縮往(1648-1733)は藩医の家の生まれ、経学文章を学びながら、中国明画を研究し独自の画風を確立した。儒者としてよりも画人として知られ、幕府の儒者・荻生徂徠(1666-1728)も、縮往に宛てた書簡のなかで「出来映えの素晴らしさに寝食を忘れるほど」と賞賛したという。縮往の門人、張天然(1715-1786)、井上親明(不明-不明)は師の画風を忠実に伝えており、縮往の作とされる無落款の作品も、門人による可能姓があるとされる。また、萩藩士・山県鶴江(1754-1803)は、各地を巡って諸派を学び、菅江嶺(1762-1852)、渋谷道勝(不明-1851)らの門人を育てた。

佐々木縮往(1648-1733)
慶安元年萩生まれ。萩藩儒者。藩医・佐々木道安重直の二男。通称は次郎、のちに平太夫。中国明画を研究して独自の画風を確立した。花鳥画、人物画に優れた作品が多い。儒者よりも画人として知られた。門人に張天然、井上親明がいる。享保19年、86歳で死去した。

張天然(1715-1786)
正徳5年生まれ。名は方平、通称は彦四郎、のちに半蔵。萩藩士。佐々木縮往に師事し、師の画法を忠実に守った。天明6年、72歳で死去した。

井上親明(不明-不明)
幼名は權之助、のちに彌五左衛門、さらに武兵衛と改めた。佐々木縮往に師事し、師の画風を伝えた。享保5年絵図方頭人となった。

有馬喜三太(不明-1769)
名は武春、雲谷等達に絵を習い、藩の絵図方、郡方定役となった、寛保二年萩藩主毛利宗広のために『御国廻御行程記』を作成した。明和6年、62歳で死去した。

山県鶴江(1754-1803)
宝暦4年吉敷生まれ。萩藩士。名は英、字は子粲、通称は俊平。別号に県英がある。幼いころから書画を好み、各地を巡って諸派を学び、独自の画風を確立した。書、篆刻、俳句などもよくした。享和2年、49歳で死去した。

菅江嶺(1762-1852)
宝暦12年美祢郡長田村生まれ。はじめ山県鶴江に師事し、のちに岸駒や春木南湖らに学び、諸家を統合して一家を成した。文政10年萩藩主に召し抱えられた。門人に能美鴎友、岸龍山、大野葭洲らがいる。

渋谷道勝(不明-1851)
名は章、通称は源吾。萩藩士。画を山県鶴江に学び、長南、華岳と号した。15歳で藩主斎房の近侍になった。斎房没後は武具方検使となり、上勘究役などを経て小郡宰判所務代官になった。嘉永4年、69歳で死去した。

能美鴎友(不明-1846)
名は高通、通称は源吾。初号は華山、のちに鴎友と改号した。萩藩警固方。佐波郡三田尻に住んでいた。菅江嶺に師事し、花鳥図、特に鷹を得意とした。弘化3年死去した。

山口(5)画人伝・INDEX

文献:防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

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