江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

飛騨の南画家

飛騨の学問は、国学に田中大秀、儒学・漢学に赤田臥牛がいたが、中心になっていたのは門下生も多い田中大秀の国学だった。そうしたこともあってか、美濃に比べると南画を志すものが少なく、主な南画家は貫名海屋に学んだ内田雨香・平田雲巌・津野梧窓、高橋杏村村瀬秋水に学んだ杉下苔石、平野五岳に学んだ土田雪鴻らが知られるくらいである。

内田雨香(不明-1849)うちだ・うこう
大野郡高山上三之町生まれ。名は文啓、通称は孫助。屋号は森茂屋。別号に停雲がある。川上逸翁の弟で内田氏を継いだ。貫名海屋と篠崎小竹に学び、詩もよくした。嘉永2年、49歳で死去した。

平田雲巌(1826-1881)ひらた・うんがん
文政9年生まれ。鬢付油等製造販売業・柳風の判者。高山二之町の人。打保屋三代直紀の長子。別号に斐太等、農楽庵、引板、中次郎がある。貫名海屋に画を学び、和漢の名画を研究した。柳風の門弟が多かった。明治14年死去。

生井春坡(1828-1885)いくい・しゅんは
文政11年生まれ。名は養。高山の医師。貫名海屋、日根野対山に師事した。明治18年、58歳で死去した。

津野梧窓(1836-1890)つの・ごそう
天保7年生まれ。神職・糸問屋・狂句判者。高山の人。別号に千岐、路春、蘿園、歩月、五三二がある。福島屋五右衛門と称した。山崎弘泰に和歌を、貫名海屋に南画を学んだ。明治23年死去。

杉下苔石(不明-1875)すぎした・たいせき
高山の人。名は太十郎。別号に万碧がある。書は晋唐の書型で大字を好み、画は母方の外祖父・市村鳳頂や美濃の高橋杏村、村瀬秋水に学んだ。俳句、茶、花もたしなんだ。明治8年、54歳で死去した。

土田雪鴻(不明-1906)つちだ・せっこう
高山の人。幼名は松之助、字は易。別号に判耕、海岳がある。画は平野五岳に、詩は草場船山に、書は長三洲に学んだ。特に篆刻で名声があった。明治38年に上京し、南宗画会の幹事を務めた。明治39年、45歳で死去した。

和仁松雨(不明-1905)わに・しょうう
高山の人。荒城与兵衛と称した。豆乳を製造していた。明治5年に播磨、丹波地方を遊学し、竹木の彫刻と南画で名声を得た。講談をよくした。明治38年播州加古川で死去した。

池田桃谷(1839-1913)いけだ・とうこく
天保10年生まれ。馬瀬郷惣島村の農業・庄造の二男。幼名は与蔵、旧姓は小池。子供の頃に畑仕事をしていて鍬に刺さった蛙を見て殺生の罪の深さに気づき、郡上八幡の安養寺で出家した。のちに京都に行き浄土真宗に籍を置いた。南画を学び、札幌の草庵で画道に精進した。晩年は生家に帰り山水、花鳥、人物などの作品を残した。大正2年死去。

田島杉渓(1863-1929)たしま・さんけい
文久3年生まれ。名は稲三。高山の人。別号に菜香園がある。東京画学専門美術学校で学び、山岡墨仙・津野梧窓に師事した。中学校教師を務めた。昭和4年、67歳で死去した。

杉下守中(1867-1945)すぎした・しゅちゅう
慶応3年国府村宇津江生まれ。材木商。高山の町政に尽くした。京都の前川文嶺について北画を学び、のちに独学で南画に転じた。昭和20年、79歳で死去した。

岐阜(15)画人伝・INDEX

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典