文化年間、京都ではひとつの文化人グループが文墨界を牛耳っていた。その中心にいたのが漢詩人であり思想家の頼山陽である。山陽の周辺には、画家、文人、医師、僧侶など多くの教養人が集まり、一種のサロンを形成していた。
文化10年、頼山陽は美濃地方を訪れ、各地の名士と親交を深めた。この時に大垣の蘭学者・江馬蘭斎(1747-1838)宅も訪ね、蘭斎の娘である細香と出逢った。山陽は細香の詩、書、画の才能を認め、細香もまた山陽の詩才と学識の深さに強くひかれ、以後細香は山陽の門人となり関係を深めた。
頼山陽の美濃訪問以降、美濃の文墨界は活気に満ち、各地との交流も盛んになった。美濃で南画が本格的に行われるようになったものこれ以降のことである。
細香は山陽が没するまでの18年間に7度京都の山陽のもとを訪れ、詩文や書法の指導を受けるとともに、山陽の家族や親しい文人たちと交流した。山陽は友人である浦上春琴から画を学ぶことを勧めたり、当時長崎にいた清国の商人・江芸閣を紹介するなど、細香の名を広め、その才能を伸ばす努力を惜しまなかった。
江馬細香(1787-1861)えま・さいこう
天明7年大垣藤江村生まれ。大垣藩医で蘭学者の江馬蘭斎の長女。名は梟、幼名は多保、字は細香。別号に湘夢がある。幼い頃から画を好み、はじめ京都永観堂の僧・玉りん和尚に墨竹を学び、のちに頼山陽、浦上春琴に師事した。美濃の文人たちと交流し、梁川星巌、村瀬藤城らと漢詩文のグループ「白鴎社」を結成、さらに「咬菜社」を興し郷土の名士たちと詩をつくり交流した。文久元年、独身で生家で死去した。75歳だった。
江馬金粟(1812-1882)えま・きんぞく
文化9年生まれ。名は元齢。別号に黄雨楼がある。江馬蘭斎の養嗣・松斎の二男。松斎は蘭斎の妹・温井美与子の二男。詩を頼山陽、梁川星巌に、画を江馬細香に学んだ。竹島町に医院を開業した。明治15年、71歳で死去した。
江馬南坡(1876-1936)えま・なんぱ
明治9年生まれ。大垣市南寺内町江馬家の新家・江馬春琢の長男。名は春斎。幼い頃から文人画風の画を描き、江馬細香の再来かといわれた。金粟に愛されて号を南坡とつけられた。東京に出て第一高等学校を卒業し、京都医科大学を明治39年に卒業した。姉の夫・江馬賎男が兵庫県立神戸病院長を辞めて江馬内科医院を開業した際に助手として参加した。医業のたかわら書籍、書画の収集をした。第一高等学校在学中の夏に江馬蘭斎像を模写した絵が現存している。昭和11年、61歳で死去した。
日野霞山(不明-1872)ひの・かざん
土佐の生まれ。名は日生。両親は不詳だが、篤志家・川崎幾三郎に育てられた。幼くして土佐要法寺日源上人の許に仏門に入った。学問を好み、長じて京都に修行に出て、詩文を頼山陽に、南画を浦上春琴に学んだ。のちに江州小足村常昌寺の住職を経て、のちに羽島郡江吉良安楽寺の十三世住職となった。梁川星巌、村瀬秋水、山田訥斎、小原鉄心、小寺翠雨らと親交があった。明治5年、85歳で死去した。
傍島甘谷(不明-不明)そばじま・かんこく
名は登。大垣藩士。室町陣屋に住んでいた。江馬細香と高橋杏村に師事し、四君子、山水を得意とした。
卜部金英(不明-不明)うらべ・きんえい
揖斐三輪の人。名は菊。別号に長生がある。岡田藩儒者・柴山老山の妻。江馬細香に師事した。白鴎社同人で画もよく描いた。江馬細香、梁川紅蘭に金英を加え濃州三才女と称されることもあった。
河島養素(不明-不明)かわしま・ようそ
名は右衛門。幕末の大垣藩丈夫。江馬細香に師事し、藩務の余暇に画を描き、四君子を得意とした。
岐阜(2)-画人伝・INDEX